神田理沙 著 「十七歳の遺書」 サンリオ
書誌情報
- 【 書名 】十七歳の遺書(17歳の遺書)
- 【 著者 】神田理沙 著、小野田和美 編
- 【 刊行年月 】最初の物 1973年8月、新装版 1978年4月、サンリオ文庫の物 1984年8月
- 【 発行/発売 】サンリオ
本の概要
- 1972年秋に自殺した17歳の少女の日記と詩を、本人の死後、新聞社が編集した作品です。
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在庫状況
- 国立国会図書館には最初の物(カバー無し)、新装版(カバー無し)、サンリオ文庫の物(カバー無し)の計三冊、つまり全部があります。
- 絶版のため、書店で注文しても入手不可能です。
- 古書店に稀に出回ることがありますが、やはり入手困難です。
最初の物、新装版、サンリオ文庫の物の違い
- 新装版とサンリオ文庫の物には、死後何年か経過してから新たに見つかった16歳の頃の日記と数篇の詩が追加されています。
- 新装版とサンリオ文庫の物は構成が少々違います。新装版は17歳の頃の日記の後に、16歳の頃の日記が追加されているのに対し、サンリオ文庫の物は16歳の頃の日記の後に、17歳の頃の日記が収められています。
- なお、新装版とサンリオ文庫の物はあとがきと挿絵などが異なるだけで理沙が書いた部分は同じです。追加された日記や詩はありません。
- 三冊のあとがきはこのページの最後の方に転載してあります。
- 最初の物はページ数が40ページほど少ないため、新装版に比べ本の厚さが異なりますが縦横の大きさは同じです。他には、最初の物と新装版はカバーのデザインや挿絵が異なることが違いとして挙げられます。なお、サンリオ文庫の物は通常の文庫サイズです。
- 誤字脱字は新しい物になるほど減っています。
- サンリオ文庫の物をお持ちの方は、あえて最初の物や新装版を探す意味はないと思います。
マスメディアや書籍での紹介、引用
- 1.1972年10月19日付の「名古屋タイムズ(地方紙)」で1ページを割いて紹介されています。(国会図書館で新聞原紙が閲覧できます)
- 2.1973年6月号の「高二時代(旺文社の雑誌)」で11ページ(pp96-107)にわたって紹介されています。(国会図書館で製本された雑誌が閲覧できます)
- 3.森省二 著 「子どもの悲しみの世界」 ちくま学芸文庫 pp289-292 (書店で入手可能です)
- 4.森省二 著 「正常と異常のはざま」講談社現代新書 pp173-176 (書店で入手可能です)
- 本の編集を行った新聞社(1999年現在の情報です)
- 【 タイトル 】名古屋タイムズ
- 【 媒体概要 】 夕刊新聞 1946~
- 【 判型 】ブラ
- 【 建頁(約) 】12~16
- 【 部数 】146,137PS
- 【 国会図書館請求記号 】Z81-51
- 【 分野 】●愛知県紙○分野番号→200M
- 【 版元 】(社)名古屋タイムズ社
- 【 単冊定価 】90円-送料別 [消費税]内
- 【 定期定価 】2,245円/月-送料別 [消費税]内
- 【 発売日 】日曜日休刊
- 【 発売所 】新聞店/キヨ/スタ
- 【 広告掲載 】あり
- 【 内容 】名古屋を中心とする地域紙。
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関連資料
著作権について
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このページでは「十七歳の遺書」の文章全てを転載しています。
著作権者に全文転載の許可を得たいと考えておりますが、著作権者の連絡先がわからないため、無断転載となっております。
「十七歳の遺書」復刊計画について
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私は、このページがどこかの出版社の編集者の目にとまり、この本の価値を認め、復刊へと動いて下さるのを期待して制作しています。
しかし、今のところ、どこの出版社からも問い合わせはありません。
何か動きがありましたら、この欄でお知らせしたいと思います。
このページの編集について
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画面では「横書き」になっていますが、本では縦書きです。
改行位置は本と同じにしてあります。
文章の内容には全く手を加えていません。忠実に入力してあります。著者本人の言葉の誤用や校正漏れも含めてそのままです。
機種依存文字であるローマ数字は全角の算用数字に置き換えました。
シフトジスでエンコードできない異字体は、同じ意味のエンコードできる文字に置き換えました。
「一九七一年」あるいは「一九七二年」の表示は私が付け加えました。本の日記本文中には年の表示はありません。
日付が飛んでいる部分がありますが、私が編集したわけではありません。本そのままです。本にする過程で省かれたのだと思いますが詳細はわかりません。
日記や詩を置く順番は、サンリオ文庫の物を基準にしてあります。
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本の内容
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日記とわたし
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以下引用。新装版の4ページ から 5ページ
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日記とわたし
くる日も、くる日も、しようこりもなく書き続ける日記って何んだろう。
怒りと、喜びと、悲しみと、うれいと、いろいろのできごとを書く日記。
「めんどくさい、やめてしまえ!」
「過去は、忘れてしまうのが一番!」
「そんなヒマがあったら勉強を!」
そんな声が私を脅迫する。”やめようか”と、誘惑に負けそうになったことも何度も…。
でも、私は、やっぱり、日記をかく。
そう、日記は、私の分身。
一日を生きた”もう一人の私”との対話のひととき。
散る花を惜しんで、筆をとる画家のように。ぼたん雪のふるさまを、文字にする詩人のように。
日記は、私の青春の日々をしるす「心のアルバム」。たった一回こっきりで去っていく私の「時間の足跡」。
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引用終わり。
(注:この十六歳のころの日記は最初の物には収められていません。)
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以下引用。新装版の117ページ から 144ページ
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十六歳のころ
サガンの「悲しみよ、こんにちは」をもう一度読むことにした。これで四度目。
小説を読むということの一つの楽しみは、自分以外の人生を、もう一つ経験することができるという点にあるのだから、そういう意味でも、この本は、何度読んでも、私を失望させることはない。十一時半に読み終る。
高校に入学した当時は、早く三年生になり、一日も早く卒業して、大学へ行きたい……なんて思い続けていた。
しかし、もう、その高校生活も二年目。うかうかしていられない。今学期中にマスターすべき、科目別のプランをたてる。
夜直子の家に、数学の参考書を借りにいく。
一日は二十四時間しかない。これが、やりたいこと、やらねばならないことがいっぱいある。私たち、高二生にとっては悩みのタネ。
クラブでも、生徒会でも、学校行事でも、主役はみんな高二生。そのうえ、進路の問題やら、教養のための読書やら、そして男女交際だって、モテモテの大はんじょう。
それでも、やっぱり手のぬけないのが勉強。科目はふえるし、スピードは速くなるし、研究発表などバッチリふえて、おまけに、大学進学のことを考えていると、息つくひまもないほどである。
そこで、キリキリ舞いの大いそがしの中でも、どこか落ちこぼれて、ムダになっている時間はないか、それをうまく活用する方法はないか、きょうは、クラスみんなでそれを考えた。ある、ある、いっぱい。
▽乗りものを待つ時間。乗りものの中での時間。放課後教室で。クラブ待ち。友だち待ち合わせ。夕食前後。
▽先生の待ち時間。自習時間の前。H・R待ち。生徒会待ち。先生の遅刻。
このミニ・ミニ時間は、じっくり何かがやれる時間ではないが、やろうと思えば、やれる。私はあと一人で考えて、単語カード、豆タンをやることにした。
石川先生が教室に入ってくるなり、黒板にたたきつけるように文章を書いた。
「ぼくの発恋は、中学三年のときだった。結婚したいと思ったけど、単なる有情にとどめることにした。先生に相談したいが、どうも親頼できる先生がいない……」。
書いたあと、赤いチョークで、「発恋」、「有情」、「親頼」の横にペケの印をつけた。
「これを書いた男が、このクラスのなかにいる。公立高校の二年生にもなって、こんなあて字を本気で書いたとは思えない。とすると、冗談ということになる。だれのための冗談か、本人は胸に手をあてて考えてみるがいい。先生への冗談であってもいい。ただ一つ言えることは、これは、まぎれもなく、自分自身を一番ソマツにあつかった男のやり方だということだ」
先生は真剣に怒っていた。
放課後、あれは誰が書いたのだろうと四、五人集って話し合ったが、わからなかった。
道子さんは「あんなに怒ることはないわ」といっていたし、石田君も「大ものじゃないな、オレたちに怒るなんて」といっていた。
初恋を発恋か、友情を有情か、信頼を親頼か―。まことにフィーリング時代に生きる高校生らしいことではあるが、ちょっとオフザケがすぎはしないか。それとも、”急ぎ時代”のあくせく高校生を皮肉ったつもりなのか。
予習も復習も、夜八時に終ったので、読みかけのルナールの「にんじん」を終りまで読んだ。
”にんじん”の残酷行為がいちばんめだつ。モグラを石にたたきつけて、なぶり殺しにする。しゃこの頭をクワでふんづけて殺す。ネコの顔半分を銃でねらって、うちとばす。
こうした動物相手だけではない。人間を相手にもこれをやる。
年をとりすぎて、役に立たなくなった女中を、ワナで仕掛けてクビにする。寄宿の舎監が生徒とあやしいと校長につげ口して、これをクビにする。
いったい、ルナールは、どういうつもりでこの「にんじん」を書いたのだろう。異常生活を持つ母への反抗か。それとも……。
三時間目の山本先生の時間。授業は少しやっただけで、あと先生は「夏休みこそ、きらいな教科をなくする絶好の機会」といって、その話をしてくださった。忘れてはならないので、しっかり書いておこう。
食べものにでも、好き嫌いがあるように、だれにでも、得意な教科、不得意な教科というものはあるものだ。しかし、これは、なおさなくてはいけない。嫌いな教科が、いつの間にか、不得意な教科になってしまっては困る。そこで間もなくやってくる夏休みを利用して、嫌いな教科をなくしてみるよう挑戦してみてはどうか。
といったって、本人がその気になって努力しなくてはこれは不可能。君たちの夏休み中における努力が、不得意な教科を、得意な教科にチェンジすることができるのである。
それには、どうしたらよいか。まず、嫌いな教科と仲良くし、時間をかけることがかんよう。
草花を咲かす場合だってそうだが、土の中にタネをまいて、水をやり、太陽の光りをあてたって、ある時間がたたないと、芽を出してこないし、成長もしない。これと同様に、まず、タネをまき、水をやる習慣をつけることだ。
君たちは、一年生の教科書や参考書をもう一度そろえよう。そうして、ごく基本的なことから勉強しなおすのだ。お互いの意思が通じ合うまで、根気よく時間をかけて、きらいな教科書と話し合いをする。こうしたことを日々積み重ねていけば、二学期の始まるころには、きっと得意教科になってくれているはずである。
ただ、ここで大切なことは、やる以上、真剣に集中的にやることだ。毎日毎日それをくりかえすと、いつか習慣になって、やがてごく普通のことになってしまう。
一時間真剣に勉強したら、十分から十五分ぐらいの休けい時間をとることも必要。かといって、テレビにかじりついたり、マンガに飛びついたりはいけない。軽い運動することが何より必要。夏はからだが消耗するから、三十分程の仮眠をとるのも一つの方法。できれば、夜より朝のうちに、こうした時間をとる方がよい。ともかくこの夏休みにそれに挑戦し、嫌いな教科を一つでも、二つでもへらすがよい。
一等いやな虫、あいくちのように
食いこむ 懐疑の思い
一等いやな毒、自分自身の
能力に絶望すること
ハイネの詩集より
「ひとりごと」
この世のことなど、どうでもいいとおっしゃいますが、では、いったい、いつ、どこに、本気になって、生きる場所があるというのですか。
◇
きょうぐらいいいわと、おっしゃいますが、あなた知っていますか。きのうまでのあなたが、きょうのあなたをつくり、きょうのあなたが、あしたのあなたをつくるということを。
◇
あなたは、書物の中に格言や、定義や、しげきのある文句しか読みとらない。そして、そんな言葉の寄せ集めの豊富になることを、自分が高められたことだと錯覚していらっしゃる。それでは、精神自身を成長させるものではなく、精神を借衣装で飾ることにすぎません。
◇
ちょっと気に入らないことをすると、親不幸―っていうけど、とすると、子どもは親の気にいるためにのみ存在していなくてはならないのでしょうか。だったら、子どもって、いったいなに?
◇
どろぼうをする親もいるし、人殺しをする親もいる。汚職をする親もいるし、勇気のない親もいる。子どもだって、親を選ぶ権利があってもいいはずなのに……。
◇
大人と子どものちがいは、大人には子どもの本当の心がわからないということだし、子どもには、大人の本当の心がわからないということではないかしら。
◇
学校からのあんなもの一枚、なんであれほど一喜一憂するのかしら。私たちの将来は、私たちがきめる。親たちがきめるのではないはずなのに。
◇
カネ、かね、金、この世はかねがすべてなのであろうか。おとなは、そのためにのみ、みんなアクセクしているように見える。
◇
なぜ、あれほどまで、手をかえ、品をかえてまで、東大、京大、名大へいくことを望むのかしら。社会に出て、いい条件を獲得することはわかっているが、あんな目の色をかえられると、ハテなと思ったりする。
◇
高い理想をもっているということが、そのことだけで、もはや、その人自身の現実まで高くなっているということではありません。くたばれ! 東大病患者たち! 教室をカサカサにし、学校を格子なき牢獄にしているのは、きみたちなんですぞ!
”テレビは、精神の自由を失なわせる”といった詩人のことばが気になって、きょうも一日テレビを見なかった。
夜十時。勉強がひとくぎりついたとき、とつぜん妙な考えのとりこになってしまった。
人は何のために生きるのか。また、どうしてこの世に生まれてきたのか。どうしてこの世はあるのか。みんな、このような問題を、真剣に考えたことがあるのだろうか。こうした疑問に対し、納得できる理論的な説明をきいたことがない。
よい学校にいくために、必死になって勉強する。よりよい生活をするために、一生懸命になって働く。その結果が、何か得られるというのだろう。何が残るというのだろう。
この世における人生の真の目的は、いったい何なのか。惰性に流されている自分の人生というものをもっと真剣に見つめなくてはならないのではないか――。
きょうも一日中、心が落ちつかなかった。なぜ、どうして……。素直な気持になって考えてみる。自分に素直であるということは、たえず自分への厳しい問いかけをすることであろうから。この夏、勉強よりも、遊びよりも、もの思いにふける時が多かったのは、悩み多い青春のためか。それとも青虫が蝶になるための過程なのか。
幼いころ、空をとぶ鳥になりたいと思った私。逃避したいというのでなく、ただ、もっと、もっと、広い、大きい、世の中を見つめて見たい――と思ったからだが――。
いまは、自分がこの世で一番つまらない人間に見えたり、時には、自分で一番いい子に見えたり。このゆれうごく心は何んなの。
昼間は暑くて仕方がないから、朝早くから勉強しようと昨夜早寝したためか、夜明け前に目が覚めてしまった。
少し英語を勉強して、ふと窓に目をやると、東の空が白んでくるところであった。街のあたりの暗い青色と、小さい山のふもとの木々の間のオレンジ色が、だんだんとけあっているうちに、野鳥のさえずりがきこえてきた。ウハーツ、朝って、こんなふうにやってくるんだなあと思い、すっかり感動してしまった。
生きているって、こんなにすばらしいことなんだ。自然って素敵なんだなあと、しみじみ思ったら、この三、四日もやもやしていた気分がすっと晴れて、コカコーラのコマーシャルではないが、”スカット、さわやか”になった。よし、これからこの朝をのがさず見ようと心にきめた。
夏休み中に、読んだ本のなかから、心に残ったものを、まとめて書いておこう。
人間には、好き嫌いもあるし、適不適もある。やはり、自分の才能に応じた進路を見出さないと、本人にとっても、社会にとっても損であるに違いない。
札幌農学校でクラーク博士が、学生にした教訓の一つ。この学校では、六十点とれば諸君はぶじ卒業できます。しかし、社会にでては、六十点では通りません。
教育とは、勉強したり、覚えたりしたものが消えたあと、何が残るかの問題である。
昨今の高校生は、安易に自由をふりまわし「オレは束縛されるのがきらいだ」などというと、いかにも進んでいるといったふうな錯覚を持っているように感じるが、苦痛や、迷いや、失望のない「豊かな青春」などあり得るはずもなく、束縛もまた豊かさへの布石かも知れないのである。
人間、自分で自分を甘やかすようになったら、おしまいである。病気をなおすのに、甘えが一番の障害であるように。
”決定していない自分”を抱えているということは、かなり気の重いことです。でも、私はいつも思うのです。「他の人がとって代われるような自分になりたくない」と。
”東大偏重”というが、これまで実際、できる人が東大卒に多かったんでしよう。
学ぶとは、誠実を胸に刻むこと。
教えるとは、希望をともに語ること。
Tさんへ。
だれが持ってきたのか
黒わくだけの
手紙が置いてあった
その朝 あれほど
さえずっていた
小鳥が死んだ
冷たいむくろとなって
庭の 花も散った
悲しみのため
彼女は 化石となった
ボタン雪の
ふりつむ町で
だれかが
声をかぎりに呼ぶ
わたしの小鳥を
死なさないで
わたしの花を
散らさないで
恐怖の期末テストからやっと解放された。夕方、雨戸をしめようと、ガラス戸をあけ、ふと庭に目をやると、しげった草の向こうの方を、一羽の鳥が歩いていく。よく見ると、その母鳥のあとを追って、五羽のヒナがよちよちとクビをふりながらついていった。
あまりのかわいらしさに、しばらくの間、雨戸をしめるのも忘れて、じっと眺めていた。名前もわからない鳥だったが、テスト、テストで疲れ切った私の心は、久しぶりになんともいえないさわやかな気分につつまれた。
体が悪いといって十日ほど休んでいた敏子が出てきた。まだ元気がない。昼休みに「ちょっと話をきいて」というので、だれもいない教室へいった。敏子は、しばらくまよっていたようだったが、やがて決心したような顔で「わたし、学校へくるのがいやだったの。父母にも内しょで、学校にはウソの届けを出して、早退や欠席をつづけていたの」という。
学校がイヤになった理由の第一は、クラスの人がみんなつまらなさそうにしていて、休み時間でもぼんやり座ったり、窓の外を見たりで、ちょっとも楽しくない。
第二の理由は、自分の容姿への劣等感。ことに、学校でのおもしろくなさを食欲でみたすため、すごく”でぶ”になったこと。カガミを見るたびにがっかりして、二、三日は減食してみるが、そのあとは反動で、また食べてしまう。そのくりかえし。そんな自分がいやになって、ついつい早退、欠席したのだというのだった。
「それで私に相談というのは」と聞くと、敏子は、担任の宮本先生のところへ一緒にいってほしい。そこで、「理沙ちゃんから、正直にこのことを先生にいってほしいの。あなた、信用があるから。そして、先生の意見をききたいのよ」とのことだった。
私は早速宮本先生のところへ行き、このことを話し、授業終了後応接間で三人で話し合うことにした。
敏子に対して宮本先生の答えはだいたいこうだった。
義務教育はすんでいるのだから、どうしてもいやというのなら、高校へはこなくてもいいわけだ。しかし、君の場合、ほかにしたいことがあったり、劣等感のためだとすると、これはいけない。
高校で勉強するというのは、その間に自分の進みたい道をみつけるためのはず。人は人、自分は自分で、せっかく学費を払っているのだから、大いに知識を吸収したらいい。
太っていることを理由の一つにあげているが、たくさん食べれば太るのはあたり前。
やけ酒というのは聞くが、やけ食いというのはきかない。かといって一度にへらすと、また反動で大食いするから、少しづつへらして、何かスポーツをやるといい。
カガミに姿を写してがっかりするのではなく、どこが一番みぐるしいか、よくつきとめ、体そうしたり、散歩したりして、魅力ある少女になるように努力してみるがいい。そして、堂々と胸をはって学校へ通へ、と。
敏子は、少し明るい顔になってかえった。私は、敏子の”いい友達になろう”と決心した。
学校から帰ったら、机の上に置き手紙が置いてあった。ひと目で母の字とわかった。
「八事の良子さんの家で、赤ちゃんがうまれそうと電話があったので、出かけます。お父さんは、役所の用で遅くなるそうですから、勉強がすんだら、先におやすみなさい。夕食は、松野寿しさんが六時半ごろ持ってきます。」と書いてあった。
勉強もすませ、食事もすませてから、八事の家へいくことにした。外は美しい星空の夜だった。こんな美しい夜に生まれてくる子は、なんだか幸福になれるように思え、私の心ははずんでいた。
母は私を見てびっくりしたし、”あんたはまだ早い”といったが、良子さんの部屋に入ってあれこれ手伝った。
早朝の午前四時四十八分男子出産。母の話だと十時間近くも苦しんだすえだという。
私がきてからでも随分苦しんだ。少し間をおいては、つぎつぎとおそってくる陣痛に、身もだえする、苦しむ、さけぶ。ひたいや顔に大つぶ小つぶの汗がびっしり。激しくなると、ふとんのハシをつかんで絶きょうする。痛むたびにお医者さんは、「その調子、その調子、しっかりりきんで、りきんで」といい、「もうじき、もうじき、痛くならなきゃだめ」と言ったり、腰をもんだり、お腹をさすったり。
私は、かわいそうで、つらくて、見ておれなかった。
でも、やっと、男の子が生まれた。大きな声で”おぎあ”と泣くものかと思っていたら、小さい子ネコのような声で泣くのだった。生まれたぶんなのに、良子さんの足をけるのだった。
顔はちょうどサルのようで、うすい毛がいち面に生えている。湯に入れて、うぶ着を着せると、それでもう、立派なベビーちゃんである。
やがて、若いママのよこですやすや眠る。それでも、生きているよと知らせるように、ときどき口を動かし、体をぴくぴくさせる。
新しい人間が、いまここから出発する。目に見えぬ新しい運命の暦をもって……。
私は、頭の中がジーンとし、すごく感動した。
茶の間にもどったら、もう家の人たちは良子さんの実家の人たちが、ベビーの名前をどうつけるか、話し合っていた。
太郎や一郎は、ありふれている。直樹や英也は気ざっぽい。われ一人という意味で、吾一はどうか。それは、山本有三の小説に出てくるからだめだ。純夫がいいか、順一がいいか。――大人たちは、勝手気ままなことをいい合っていた。
夜がしらじらと明けかけていた。
学校から帰ってみたら、部屋の中がちょっとちがった感じがした。机の中を見て、はっきりだれかが入って、何か見ようとしたか、さがそうとしたかがわかった……。
お母さん、あまりにもやさしいお母さん、そのやさしさのあまり、私の机の中をきちんと見てくださる。それが自分の最大の義務であると思ってか。
でも、私は、やっぱりいや。もう、小学生じゃあないんです。
夕ごはんのとき、そっと母を見たが、いつもと少しもかわりなく、一日のできごとを父に話していた。もちろん、私にも、ほほえみを投げかけたり。
正直いって、私は内心ゾッとした。
ひょっとすると、肉親は、時には、他人よりも冷たいものかも知れない――と思ったりした。
お母さん、他人はともかく、
自分の生んだ子だけは
信じてよ。
きょう午後、父のところへきた山田さんが、おもしろい話をしてくれたので、家中いっとき大笑いだった。
父と同じ役所につとめている山田さんが、この間の日曜日、長男で中一の太郎君にハガキをポストに入れてくるようにたのんだのだそうな。”はい”と返事よく出かけた太郎君が、やがて、ぷりぷり怒りながら、ハガキを持ったままかえってきて「なんで、ぼくがブタの子だ」と、山田さんに抗議をしたんだって。太郎君が春休みに世話になった田舎の人へ、「過日は、豚児太郎が大変お世話になりまして」と書いてあったのが気に入らないというわけ。
そこで山田さんが、太郎君に向かって”豚児”の語源を説明し「なにも、太郎をブタの子と同じように見たわけではない。これは、相手に対し、自分の子をへりくだっていったのだ……」といいきかせた。
そのときは、それ以上何もいわなかったのに、きのう役所から帰ったら、奥さんがこれを見てくださいと、太郎君の作文を山田さんに見せた。山田さん、それを見てびっくりぎょうてん。「その作文には、こう書いてあったんですよ。”私の豚父は公務員でいばっているくせに、マンガが大好き。私の豚母も、日ごろえらそうなことをいうくせに、テレビの万才ばかりきいて大笑い。にたもの夫婦ということばがあるそうですが、うちの両親たちは、にたもの豚父豚母です……”と書いてあったんですよ。」と、にが笑いをしながらの説明。父も母も、これには、ハラをかかえて大笑い「いまの子は、たいへんですよねえ」と、母がいって、私の方をチラリと見た。私は太郎君をおもしろい男と思った。
きのう父が小鳥を買ってきた。「理沙ちゃんの窓辺に置いとくといいわ」と母のことばに従って私の部屋へ。
小鳥を飼うのは初めて。エサをやるのもおっかなびっくり。カナリヤのオスとメス。同じ鳥でも、オスとメスとは、性格が全く対照的のようで、オスはおすまし屋。メスはおてんばさん。近づくとチュツ、チュツとないて、カゴの中をとびまわる。小鳥って、こんなに可愛かったのかと、いまさらのように驚く。
毎日朝から晩まで、勉強、勉強と、勉強に追っかけられていると、どうしても気分がいらいらになりがち。でも、つかれた目でこの二羽の小鳥を見ると、なんとなく心がなごむ。そのうちに母と相談して、名前をつけてあげよう。
信州長野のおばさんの家へ。名古屋は寒いだけだったが、こちらは雪。それもだいぶつもっていた。バスターミナルから戸隠方面行きのバスに。四十分でおばさんの家についた。みやげのちくわと、ういろうを仏前へ。夜は十二時近くまでおしゃべり。あと床にはいったが、なかなかねむれない。スタンドをつけて、うたを作ってみた。
「だれでしよう」
とん、とん、ととんこ、とん、とん、とん、
おや、おや、だれかが、戸をたたく
お外にや、だあれも、いないのに
とん、とん、たたくは だれでしよう
お山の きつねが きたかしら
とん、とん、ととんこ、とん、とん、とん、
おや、おや、だれかが、またたたく
お外にや、だあれもいないのに
とん、とん、たたくは、だれでしよう
木がらし 坊やの 声かしら
とん、とん、ととんこ、とん、とん、とん、
おや、おや、だれかがまたたたく
お外にや、だあれも、いないのに
とん、とん、たたくは、だれでしよう
魔法使いの ツエかしら
とん、とん、ととんこ、とん、とん、とん、
おや、おや、だれかが、またたたく
ぼうやは、しずかに、おねむりね
とん、とん、とろりこ、とん、とろり、
いいこよ、よいこよ、おねむりね
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引用終わり。
仏法僧とユリの花
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以下引用。新装版の145ページ から 148ページ
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高二の冬に書いた民話。
三河の国の鳳来寺山に伝わる
「仏法僧とユリの花」
むかし、むかし、長篠の村はずれに、母と娘が住んでいたそうな。十二になるその娘は、とても心がやさしく、自分の食べるものを残しては、家のそばを流れる小川の魚たちに投げてやったり、柿の実が熟すと、小鳥たちを呼んでやったりしたそうな。
ところが、ある冬の夕ぐれ、娘は、とつぜん、眼が見えなくなってしまったんだと。その日娘がタキギを取りに山に入ったところ、ズドン! という銃声とともに、バラ玉が飛んできて、娘の両目を傷つけてしまったんだと。
仕事から帰ってきた母親は”どうして、こんないい子を…”と、なげき悲しんだが、すべてはあとのまつりじゃったと。
それでも、あきらめきれぬ母親は”どうぞ、私の眼をつぶしてもいいから、娘の眼だけは見えるようにしてあげてください”と、村の鎮守の神さまに、お百度参りをつづけたそうな。
ふしぎなことに、お百度参りの満願の日の夜半、母親の夢の中に神さまが現われ”鳳来寺山にある寺に参るがよい。やがて眼が開くであろう。ゆめゆめ、疑うことなかれ”とのお告げがあったそうな。
あくる日、母親は、にわか目しいの娘をつれて、鳳来寺山へ出かけたんだそうな。その日は、朝から底冷えのする寒い日であった。
ところが、この世はまことままならぬもので、母と娘が鳳来寺山の中ほどまできたところ、娘がにわかに腹痛を訴え、七転八倒の苦しみよう。
母親は、なすすべもなく、しばらく思案にくれていたが、ふと思い出したのは、庄屋さんのところに、ハラ痛によくきくクスリがあったことじゃ。「すぐ戻ってくるから、その山小屋で、じっとしているのですよ」と、娘にいいきかせ、ころげるように、山を降りていっただと。
しかし、どうしたことか、その夜から、鳳来寺山付近は、近年にない大雪が降りはじめ、十日十晩ひっきりなしに降りつづいたそうな。十一日目の朝、里に降りた母親が、背たけほども降り積った雪をかきわけ、山小屋にたどりついたときには、娘の姿はどこにもなかったそうな。
母親は、気狂いのようになって七日七晩、飲まず、食わずで”ユリや、ユリや”と、娘の名を呼びつづけ、山の中をさまよいつづけたそうな。
呼べど、呼べど、答えるものはなし。母親は、悲しみのあまり、化石のように雪の中にすわったまま、やがて息たえてしまったんだと。
日がたち、月がかわり、冬が去り、春がきて、春が去り、夏がきたころ、その鳳来寺の山中に、世にも不思議なことが起こったんだと。高い高い樹の上で、大きな鳥”がブッポウソー、ブッポウソー”と鳴くと、これに答えるかのように、山小屋近くの山中に、白い大きな百合の花が咲くんだと。
それからのことだと。近郷近在の人たちは「あの鳥は、死んだ娘の母親の化身で、いまだに、わが子の行方を探して、鳴きつづけているのだ」と。そしてその鳥を”仏法僧”と名付けたそうな。
また、その鳥の鳴くころ、いっせいに咲きそろう百合の花は、あの心やさしい少女の、生まれかわりにちがいない……といいつたえるようになったんだと。
******************************
引用終わり。
新装版の最初のページに書かれている詩
-
以下引用。新装版の10ページ から 11ページ
******************************
同じ雲の なかでも
私は 北国の空を流れる雲が好きだ
憂いの表情を 深々と 秘めて
冷たい北の空を 流れていく雲が
溶けきれない 悲しみを胸にいだいて
うなだれて 雲は 流れていく
すべては 流れていく運命ながら
いつかは 雪の花を散らすだろう
悲しみに 負けてはならない
旅人の 一時の苦しみに
お前も 心をくじいてはいけない
同じ雲の なかでも
私は 北国の空を 流れる雲が好きだ
思いと戦いつつ 黙々と
寒冷な 空に白い花を 散らす
あの北国の空を
流れていく 雲が好きだ
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引用終わり。
理沙さんの日記
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以下引用。新装版の12ページ から 111ページ
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新年おめでとう。私の日記ちゃん。ことしも、一年間どうぞ、よろしく……。私も十七歳。高二から高三への大事な年、がんばるわ。わが家も、どうか、無事平穏でありますように―。
いつもより一時間も早く起きたのに、父も母も、そして、日ごろは朝寝坊専門の由紀夫すらもすでに起きていた。家族四人全員そろって食卓についたのは何日ぶりかしら。おぞうにのできをあれこれいいながらいただくのも、元旦だからこそだろう。
おひる少しすぎ、待っていた年賀状がきた。私と由紀夫が各個人宛に分けた。
結果はやっぱり父が最高で八十七枚。母には二十一枚、私には十九枚、由紀夫には十五枚。昨年も父が最高。「さすが、役所でいばっている部長さんだけのことはある」と由紀夫がおどけてみせた。私の十九枚のなかには、一番待っていた東京の彰さんからの年賀状がきていなかった。どうしたのかしら。
午後からテレビ番組で見たいのがあったが”一年の計はなんとやら”という言葉を思い出し、自分の部屋にもどって勉強。夕方近くまで、英語、数学、国語をみっちりやった。
晩ご飯のとき母が「理沙ちゃん、勉強のし始めにしては、よくがんばったじゃない」といったら、父が「高校というところは自分から勉強しようというヤツがいくところだ。勉強するのがあたり前だ」と力んでいった。父はつぎつぎ年始にきた人たちとお酒をくみかわしたらしくよって上きげん。やがて、「ああ、玉杯に花うけて」と、昔の高校の寮歌をうたった。
無事にまず元旦はくれた。ことしは何かいい事がありそうな予感がする。ただ、彰さんから年賀状のこないことがちょっぴり、私の心に影を落した。
きょうからいよいよ三学期。
梅村先生からクラス全員に、いつにないきびしい話があった。”受験の神様”と言われるだけあって先生の話は、ずばり急所をついていたので、みんな最初はびっくりしたがやがて熱心に耳をかたむけた。私も聞きもらすまいとしんけんに話を聞き、要点をメモした。
「来年の春、大学へアタックする君たちの受験競争はすでに中盤戦にはいっていることをまず自覚してほしい。まだ、高二の三学期がはじまったばかりなのに……と思う生徒がいたら、その生徒は、すでにみんなより一歩も二歩も遅れていることになる。」
「では、今から何をすべきかというと、ぼくはまず第一に、”自分の勉強の仕方”をもう一度検討しなおしてみることだと思う。ただ、がんばろう、がんばろうと机にしがみついているだけで、学力が伸びるものではない、だれも、かれも、みんな一生けんめいにやっている。それなのにやがて、出来る人と、出来ない人の差ができる。これは何かというと、ぼくは勉強の仕方のいい、悪いことだと思う。言葉をかえていうならば、大学に合格するか、不合格になるかの秘密がここにあるのだ。」
「英語にしろ、国語にしろ、数学にしろみんなそれぞれにやり方がちがう。ただちょっとそれぞれのポイントだけをいうと、まず、英語はたゆまざる反復訓練が何より大事。よむ、書く、なれる。この三つの復習が第一だ。そして、わからない単語があったら、めんどくさがらないで辞書をひくこと。数学は、その論理性を十分理解することが第一。ということは、予習に力を入れ、ハラからわかるまで何度でも教わったり、考えたりすること。暗記ものもバカにするな。日本史などは教科書を何度でも読むことだ。そして歴史の流れを知り、事がらを一つ一つ徹底的に頭に刻みつけるのが大事。要するにどんな科目にしろ、第一に予習、第二に復習、第三に徹底的理解――ということが必要だということだ。十分にわからないのは、これをいいかげんにして先へ進んでも、実力はつかない。実力がつかなければ、自信もわかない。自信がわかなければ、不安になる。不安心で試験にのぞめば力が一〇〇パーセント出しきれない。これではおちるのがあたり前だ。」
「受験勉強はつらい。苦しい。きびしい。しかし、一時間怠ければ、それだけ人におくれる。そのおくれがつもりつもるとやがて、合格、不合格の差になる。入試には、運、不運、山のあたり、はずれもある。しかし、ほとんどの場合、最後に勝つのは実力だ。その実力は、要を得たたゆまざる勉強のつみかさね以外にない。今後一年間の実力のつけ方いかんが、君たちの運命をも左右することを自覚してほしい。
これから、日を追うごとに、受験地獄の苦しさをいやというほど痛感するはず。
しかし、それに負けるな。くじけるな。それができんなら、大学へ行くのはやめることだ。」
先生は、最後に「要するに大学受験も自己との戦いのひとつ。自己に勝つものが試験にも勝つものだ」といわれた。自分に勝つ――自分の苦しみにも、怠け心にも勝つ――、このことが心にしみじみと刻み込まれた思いがした。
夜、梅村先生のアドバイスにしたがい、私はいままでの自分の勉強の仕方をもう一度ふりかえり改めることにした。予習をしっかりやり、わからぬ点を授業中によく聞き、家にかえりこれをもう一度よく、ひとつひとつマスターすること。暗記ものもバカにせずやることなどをきめたら、心のなかにファイトがもりもりわきあがってきた。
”理沙ちゃん、早く、早く、起きてみて”という母の声に目を覚され、窓の外を見てびっくり。まっ白な銀世界。昨夜”こんやはひえるぞ、ひえるぞ”としきりに父がいっていたし、母も「ひょっとすると、夜半に雪でも降るかも知れませんわね」といっていたが、その予感がぴったり。屋根も草木もふりつもった雪でまっ白。パジャマのまま、庭へ出てみたわたしは、池のそばに思いがけないものを見つけて足を止めた。白く積もった雪を割って、フクジュ草のかわいい芽が顔を出していたのだ。長い冬に耐えてやっと地上に顔を出した小さいいのち。私は思わず「お母さん、お母さん」と大声を出してしまった。
ちらちらとまう粉雪のなかを学校へむかいながら私はこころにいいきかせた。「さあ、私もがんばらなくっちゃあ。期末テストも、もうすぐだもの。」
久しぶりの雪降りなので、学校ではみんな大はしゃぎ。とりとめのない子どものころの雪の日の思い出にそれぞれ花を咲かせていた。授業が始まったら、宮下先生までも雪の話。ただし、こちらは文学部出身だけにちょっぴりハイクラス。「雪は春を告げる神の使いだ――とヨーロッパの作家もいっているくらい春がすぐそこにやってきたことを知らせているものだ。君たちも、春四月がくれば、いよいよ、三年生。泣いても、笑ってもあと一年こっきりで、高校生活にさよならだ。進学にしろ、就職にしろ、貴重な一日一日を悔いなく生きるように……」と、最後は多少説教じみていた。雪がきて、かえって春が近いことを知る――という感じは身近にいっぱいあるので、先生の話も私は結構心楽しくきいた。
雪は午後にはやんだが、夕方役所からかえった父は「雪で交通事故が続出、街は一日中大変だったよ」と母に話していた。
朝から雪降り。日曜日なので、外出しないで一日中勉強。みっちりやれたので、夜一時休けい。童心にかえって童謡を作った。
「こんこん小雪」
こんこん小雪が ふってます
こんこん小雪の ふるばんは
こんこん小山の 子ギツネさん
寒いに どうして いるかしら
こんこん小雪が つもります
こんこん小雪が ふってます
こんこん小雪の ふるばんは
こんこん小川の メダカさん
寒いに どうして いるかしら
こんこん小雪が つもります
こんこん小雪が ふってます
こんこん小雪の ふるばんは
こんこんこやぶの 小鳥さん
寒いに どうして いるかしら
こんこん小雪が つもります
こんこん小雪の やむ朝は
お山も 野原も まっ白け
こんこん小雪が やんだなら
まもなくくるくる 春がくる
みんなで仲よく 遊びましょ。
昨夜はしんしんとひえたが、勉強は意外にはかどった。昨年秋からとり組んだ「数2アタック」も、一問も残らずやり終えることができた。最後の問題に夢中になっていたら、スズメがチュンチュンなきはじめ、すでに東の空が白んでいた。顔を洗いに立ったら、母が「徹夜だったようね。でも、まだ一年あるんだから、それほどまでにしなくても」といった。やがて父も起きてきて「つらいだろうが、あとしばらくだ。がんばれよ。人間一生のうち、そういうきびしい時期はあってもいいはずだし、いまは苦しくとも、あとになって、よかったと思うにちがいない」と、新聞を見ながらいった。
竜子さんが校庭のすみの日だまりでぼんやりしていた。中学生ころから”ハリキリの竜ちゃん”で通っている彼女が、きょうはまったく元気がない。理由をきいたが、”ううん、なんでもない”とつくり笑いをしていたがどうも様子がただならない。お昼休み二人だけ教室に残って”水くさいわ。心配ごとなら話してよ”といったら、こっくりうなずいてわけを話してくれた。
お母さんが十日ほど前、突然家出をしたのだという。「いつもおとなしく、酒のみの父によくつかえ、文句ひとついわずやってきたのに、予期せぬ家出だったので、父にも私にも理由がわからなかったの」とのこと。近い親せきの人ばかりで内々のうちに八方手をつくして探したところ、蒲郡の温泉場で女中をしていた。兄さんが連れもどしに行ったところ「ぜったいにかえらない」といっているという。「兄はことし大学を出て就職もきまったし、私も高校はあと一年で卒業だけになったのだから、母はもう二度とあの横暴な父のもとでガマンするのはイヤだ――といっているんです。ただひたすら、私や兄の成長を待って、一応責任が終わったのだから、こんどは自分の自由がほしい――という母の気持を考えると、どうしていいのかわからないの」と、竜子さんはおろおろ声で話してくれた。「みんなにはだまっていてね」と、竜子さんはいったが、私はその晩母にだけそっと話してみた。「固い決心の上で家出したようだから、覚悟の程度も深いはず、しばらくそっとしておいてあげたら」とのことだった。
大人って何だろう。結婚ってなんだろう。―私はそんなことを考えさせられた。
父母がどんな人であろうと、竜子さんにとっては、どちらも世界でたった一人の父であり、母であるはずなのに……。
日曜日なので、ちょっぴり朝ねぼうしていたら、「カナリヤにエサをやる時間よ」という母の声におこされた。寒い。トリカゴの近くにいってオヤッと思った。いつも、私がいくとさわぎだすカナリヤが、けさはその気配もしない。不思議に思って、なかをのぞくと、メスのほうがカゴの底のところで死んでいた。母に知らせたら、父もやってきてなかをのぞき「ここ三、四日寒さがきびしかったからなあ」といい「もう少し気をつかってやればよかったよ、な」と、母と顔を見合わせた。
一羽とり残されてしまったオスがいかにも寂しそうなので、父と母に共同出資をしてもらい昼食後街へ出て、小鳥屋からメスのカナリヤを一羽買ってきてカゴに入れてやった。とどうだろう、それまでしょんぼりしていたオスが、とたんにはしゃぎ出した。
”へえ…”と私は心のなかで驚いた。こんな小さい鳥でさえも、オスかメスのどちらかがいないと、あんなにしょんぼりしてしまい反対に、まったく見知らぬ鳥でも入れてやると、とたんに元気が出てくるものかと、ほとほと感心した。
”ならばいっそのこと、小鳥たちは、いったい、どのようにして異性同志が仲よくなっていくものか、みてやろう”と、私は妙な興味と好奇心をもって、その二羽のカナリヤの観察をつづけた。
二羽のカナリヤは、初めはお互いに警戒し合ってか、なかなかそばへ近寄ろうとしない。オスがちょんちょんととまり木を移動すると、メスもちょんちょんと遠くへ逃げる。オスがちょんちょんと近づいてくると、メスがまた、ちょんちょんとにげる。
死んだメスが生きていたころは、二羽がいつも寄りそっていて、首すじを突っつき合ったりしたものだった。つつかれる方がさも心地よさそうに目を細めて、相手のなすがままにしているので、母が「うちのカナリヤは、いつまでたっても新婚ホヤホヤみたい」と笑うほどの仲よし夫婦ぶりだった。それが、新入りの奥さんカナリヤとは、なかなかなじめないのか、オスの方もあっちにとんだり、こっちにとんだりをくりかえしているだけ。
勉強をおろそかにするわけにはいかないので、カナリヤ観察は三十分ほどで打ちきり部屋にもどった。
夜、そっとカゴのなかをのぞくと、二羽のカナリヤは、いつの間に心を許しあったのか、巣のなかにはいって、仲よくもたれ合ってねむっていた。
連日、深夜までの勉強のためか、近ごろ時々頭が重く、どうしようもない疲労感を意識するが、きょうは特にひどい。授業に夢中になっているときはいい。休憩時にぼんやりしていると、疲労感が突然おそってくる。
期末試験も近く大事な時なので、学校のかえりみち校医の先生の病院によった。ところがどうだろう。待合室には、私と同じく、一見健康そうに見える高校生が何人もいた。お互いに話しているのを、聞くともなしに聞くと、目がちらつく。からだがだるい。イライラする。目まいがするなど、同じような疲労感をうったえあっていた。
院長先生は診察のあと、「きみのはスタミナが欠乏している。一日約二千五百カロリーは摂取しなければいけないな」とおっしゃった。あと、こうつけ加えられた。「君たちのように高二ともなれば、受験勉強も大切だ。しかし、健康はもっと大切だよ。学科は少しくらい悪くても、その気になって努力すれば学力はとりかえせるが、一度こわした健康は将来に影響することだってあるんだからね」と。家にかえってからこのことを母に話したら、「そういえばその通りでしょ。しかしねえ、理沙ちゃん、病気はお医者さんに見ていただいて治療すればすぐ治るけれど、遅れた成績はとりかえしがつかないでしょ。それは記録にちゃんとのこって、大学への内申書として報告されるんだもの」といった。
そういえば、学校の通知簿にしても、健康は大切だ、大切だといいながらも、父も母も、学校の成績だけしか見ようとしない。
とはいうものの、いまの私にとってそんなことはどうでもいい。勉強、勉強が第一。
夜十一時すぎ母が夜食をもってきてくれた。「かぜをひかないようにね。やはり体も大事だから……。ほどほどにね」と笑った。
きょうはいやなことが二つもあった。ひとつは朝通学電車が人身事故で三十分以上も遅れ、もう少しで遅刻するところだった。
いまひとつは、自称”クラス一の美人”久枝さんのおしゃべり公害。どこでどう聞いたのか、知らないが、竜子さんのお母さんの家出を知っていて、こそこそクラスの次から次へと話しまわっているらしい。お昼の休みのとき、私のそばにきて、それを言うのだった。私は腹が立ったがこの人には何をいってもムダだと思ったので「そう。そのうちにかえるでしょう」と笑って答えておいた。それにしても、久枝さんって、なぜ、あんなに人のウワサや中傷が好きなのだろう。まるで、ウワサや中傷を食べて生きている人みたい。いい家の子だというのに、人の不幸をよろこんだりするのは、最低の人間ではないか―。
父も母も弟も朝から、田舎の法事にいって、私一人留守居番。おかげで一日中みっちり予習復習ができたので、夜は久しぶりにテレビを見た。山本周五郎作の「しょうげん様の細道」のドラマ化で「ここはどこの細道じゃ」に、女の生きる一つの道を示唆されたようで感動深かった。
主役のおひろにふんした若尾文子の哀愁をこめた「ここはどこの細道じゃ」と歌が流れるとともにドラマが始まり、また、この歌でドラマは終わったのだが、女の悲哀を静かに余いんを残してのラストは実に心にくいほどであった。
自分の夫がケガをして働けないので、かわりに体を張って働くおひろが、つらいことがあると川のほとりにやってきて、水面に目をおとしながら「五十年前、五十年後」と、低く悲しくつぶやくが、これがまことに印象深く、心の底に刻みつけられた思い。
「五十年前は自分はこの世にいなかった。五十年後もまた、この世にはいないだろうから、自分がないものと思えば、この世の苦境を耐えて乗り切ることができる」と、自分にいいきかせるシーンであった。自我を捨てているようで、実はつよく生きていく姿に、私は思わずもらい泣きしてしまった。私のこれから長い人生のなかでも、おひろが背負ったような様々な苦しみや不安や悲哀があるかも知れない。いや、きっとある。でもなんとか強く生きていきたい。「五十年前、五十年後」とつぶやきながら……。
夜遅く、父たちはかえってきた。父は赤い顔をしていた。母はつかれきった顔をしていた。弟だけ元気。
それにしても”ものをいうのもわずらわしい”といった母のつかれた様子が、妙に気になってしかたがなかった。
どんなことが 起ろうと
どんな時代の 波風が荒れようと
どんな冷い批判を 受けようと
どんな苦悩の どん底にあろうと
どんな幸福の 絶頂にあろうと
常に変らぬ ありのままの人
そんな人に 私はあこがれる
いつも大地に 足を踏みしめ
周囲をぐるぐる めぐってゆく
物象の変化に とらわれず
自分を見失しなわず
自分の道を かんぜんと進む人
そんな人を わたしは愛したい
気どらず 飾らず
知恵深く 情深く
心の底で 自分を信じて
誤解にも 不幸にも じっと耐えて
いつも ありのままの人
そんな人を わたしは尊ぶ
卒業式。今日を限りに学校を出ていく三年生の先輩たちは、さぞかし感慨深いものがあるだろうと思ったのに、式が進むにつれてオヤと思うことばかり。君が代や校歌をうたう段になって、起立し斉唱した卒業生は約三分の二。あとは座ったままだんまり。先生方も早く終わって、散会したいのか、式次第もかけ足みたい。小学校や中学校の卒業式のようなふん囲気はぜんぜん。うちの学校だけかと思ったら、どこも似たようなものであったらしく、夕方夕刊を見たら、校長先生の式辞に生徒のほとんどがくるりと背をむけたところもあったようだし、卒業証書をその場でやぶった生徒、紙飛行機にしてとばした生徒もあったという。そういえば、式場を出るとき、三年生の人たちがいったことばが思い出される。「内容の伴わない、堅苦しい祝辞ばかりの卒業式なんかどうでもいいよ」。人生の一段階が終わったという感じで、特別の感慨はない。それよりか、大学受験がまだこれからなので、正直いってそのことで頭がいっぱいさ」。
夕食のとき新聞を見ながら父が母にいった。「校長の式辞に背を向けたり、国歌斉唱をこばんだり、いまの高校生は何を考えているのか。形式をかえよといっても、そんな型破りなことは出来ない。形式的でも厳しゅくであるべきだ。」と父。「そうですねえ。私たちの時は、これで学校生活ともお別れかと思って、胸がジーンとなり、涙を流したものですのに。それを、式場で卒業証書を破るなんて……。その子の意見がききたいですね」と母。「それにしても、”おちついて走らないと次の町へは着けないかも知れない”というシュピゲールの名文句を式辞に引用した校長さんもあるようだが、いまの高校生に本当の意味がわかるのかなあ」と父がいっていた。
二年最後の期末テストもきょうで終り。ホッとした気持で家に帰ってみたら、彰さんから手紙がきていた。待ちに待っていた手紙だけに、私は二階の部屋にかけあがるなり、カバンもほったらかしのまま、むさぼるようにその手紙に目を走らせた。
「理沙ちゃん、ごめん、ごめん。しばらく書くのをさぼっちゃって。実はこれにはわけがあるんだ。というのは、ぼく、ことしから本格的なバイトを始めたんだ。この四月から大学も三年になるのだから、少しでも家からの仕送りを軽くしようと思ってね。バイトは家庭教師。ある会社の重役さんの家の高二の子で毎日二時間づつの相手さ。理沙ちゃんと同じ東大志望。好敵手がまた一人ふえた。がんばれよ。では、また」。
彰さんの手紙はいつもこうだ。とても簡単なものだ。彰さんが二年前東大にはいって以来、毎月一、二回は、必ずといっていいほど便りをくれているが、いつも電報みたいに短いのが特徴。東京にも秋がきたよとか、雪がちらついたよ――といった身辺雑記風の簡単なものばかり。もっともそれはそれで、彰さんが無事平穏に学業にはげんでいる一つの証として、私はうれしくうけとり、毎月の便りをクビを長くして待っているのだが…。しかし、その電文的手紙すらも、今年に入ってからは、一通もきていない。すでに梅の花も咲こうというのに、いったいどうしたことかと、毎日毎日気にかかっていたのだが、きょうの手紙でこの不安は解消した。ところが、このよろこびもつかの間、夜、もう一度その手紙を読み返しているうちに、私はフト”彰さんの家庭教師の相手というのは、私と同じ女子高校生ではないかしら”と直感した。そしてその疑いは、ひとつの不安となって私の心のなかに小さい波をたてはじめていた。
けさ起きてみて、アラッと驚いた。勉強部屋の窓ぎわにおいてある盆栽の梅が、一輪かわいい白い花を咲かせているのだ。これは二年ほど前、花好きの彰さんと植木市を見にいったときひとはちずつ買ってきたものだ。弟はそのとき「いつになったら、そんなちっちゃな植木みたいなものが、花をさかすのか。姉ちゃんもものずきだなあ」と笑ったが、残念ながらいままで一度も花を持たなかった。それがいま、まっ白い花をつけている。
老いの威厳をそなえたような太い幹の一枝に、白くういういしい花がついていてとてもかわいい。顔を近づけると、ほのかに匂う香りも早春の花の持つ清らかさだ。温室がなくても、日ざしのさし込む南側の窓ぎわにおけば春にさきがけて花をつけてくれたのだろうか。何かさい先のよいように思えてきょうの日曜日は一日たのしかった。
あのとき、彰さんも私と同じハチを買ったが「ぼくのは紅梅だよ。スモッグが多いという東京でも、下宿のあたたかい部屋においたら紅い花をつけたよ。君のはどうだい」といってきたのは昨年のいまごろだった。あの時、私の白梅はツボミひとつもっていなかったが、ことしは丹念に水をやったり、南側の日だまりのところに出したり、してやったのが効果があってか、こんなすてきな花を見せてくれた。
夕方彰さんに手紙を書いた。「梅の白い花が星のように咲いてきれいです。ほかの枝にも、小さいツボミがふくらんで、春のくるのを予告しているようです」と書いたあと、先日の手紙以来気になっていた彰さんのバイトの相手の子は、どんな子かしらと、なにげない質問もつけ加えておいた。いつまでも、気にかけているより聞いてみるほうがいいと思ったから。どんな返事がくるかしら。
日ごろはおとなしい平松先生が、きょうは人が変ったような怒り方をした。
それは三時間目の英語の授業のときだった。テストもすんだし、春休みももうすぐだという安心感も手伝ってか、クラス全員がのんびりムードで先生の話をきいていたのだが、授業も半ばすぎたころ、お昼近くなった点もあって、一部の人が勝手に話をし合ったのがきっかけだった。突然”どん”という大きな音が先生の位置の方でし”静かにせんか”という平松先生の叫ぶ声が教室中にひびいた。みんなびっくりして先生の方を見た。さっきの音は、先生がにぎりこぶしで教だんの上をたたいた音らしい。先生は、みんなをにらむような声でこういった。「いいか。いまは授業中だぞ。まじめに授業をうけたくないものは外へ出ろ。真剣にやろうとしているものの迷惑だ」。私はオヤッと思った。いつもにこにこ顔の平松先生が、きょうはどうしたことだろう――。「やがて、きみたちは、三年生になるわけだが、きょうの授業ぶりを見ていると、わたしは実に情ない思いがする。きょうだけではない。私はたびたびこういう思いをしてきた。しかし、そのうちに改まるだろうと思ったが、ついにそれもかなえられず、きょうにいたった。高校は勉強にくるところだ。遊びにくるところではない。進学するもの、就職するものとを問わず、自分から勉強をしようと思うものが高校にきているはずだ。それがどうだ。あと一年で卒業しようというものが、高校進学の意味もわからず、授業中に勝手なおしゃべりをしているとは…。私は実に情なく思う」。さすがに教室はしーんとなった。意見をいおうという人もいる気配だったが、先生の真剣な顔と、いつにない強い語調に、誰も何もいわなかった。先生は「この際はっきりいっておこう」とつづけていった。
「人間には成長するものと年をとるものと二通りある。そのちがいは何かというと、常に学ぶこころを持っているものと、もっていないものとの差によるものだ。勉強をするのが本業の君たちが、目の前の授業をいいころかげんにしておいて、いつ、どこに本気になって生きる場所があるというのか。テストがすんだから気をぬく。お昼が近いから授業に身が入らぬ――。ばかばかしい、君たちは誰のために勉強しているのだ。自分自身のためなんだぞ」
「自分に勝てないようなものが、どうして他人に勝てる。公立高校に入った。次は国立大学だなんぞと、妙にエリート意識をもっていることが、そのことだけでもはや、自分自身の現実まで高くなっているということを意味しないんだ」
「君たちのほとんどは、一日中よくしゃべり、よく高笑する。らんぼうないい方をすると、勉強にくるのか、おしゃべりにくるのかわからないものもいる。ぼくはききたい。君たちのしゃべることばのなかに、自分の息のかかった言葉がいくつあるか――と。多くの場合、おしゃべりや高笑いは、その人間の心の空虚さを示し、頭脳の低さを証明するものだし、反対に、沈黙は、自信であり、思慮の深さですらある――」
「このごろのきみたちを見ていると、実に根気がない。一時間の授業のうち、三、四度はダレる。もっともこれは、ぼくの話し方がうまくないせいもあろうが、それにしても、十五分刻みでひと息いれ、改めてご気嫌うかがいでは、まるでテレビのマンザイと同じだよ」
この辺まできて、先生の言葉はやわらかくなった。「だって先生、テレビだって、十五分ごとにコマーシャルがはいりますよ」と、おっちょこちょいの村田君がいったので、教室中がどっと笑いにどよめいた。
「君はえらい。みずからテレビ的人間を名のり出るとは」と先生は笑ってから、最後にこういった。
「十五分刻みの思考人間がこれ以上出来てはこまるんだ。本を開いても十五分。話を聞いても十五分。十五分がすべての限度というのでは、世の中すべてひっくりかえさねばならんからなあ」と。
平松先生の主張について昼休みの時間、クラスで賛否両論がわきあがり、教室中が大にぎわいだった。真弓さんは「理沙ちゃんはどう思うの」と私の意見をもとめたが、私は笑って答えなかった。答えないで、賛成組にも反対組にも”いい子”になろうとしたのではなく、反対とか賛成とかいうことはもちろん、言葉にすれば、先生のおっしゃった大事なことの”大切な要素”がなくなってしまうように思えたので、あえて黙っていたまで。
夜、父にこの話をしたら「へえ、そんな先生がまだいるのかい」と感心していた。
南風にのって、砂ぼこりがまいあがる。それに春の陽ざしは、これまで気にならなかった部屋のよごれをはっきり見せてくれる。”エイッ!”とばかりふき掃除に念を入れたくなろうというもの。二時間がかりで部屋の掃除、本箱の整理などをした。
窓から見る庭景色もすっかり春らしくなり、水がぬるんだのか、池の金魚も泳ぎはじめた。淡紅色のボケのかわいらしい花が、とげとげしい枝に無造作にくっついている姿も愛らしい。
どこからくるのか、ときどき、ヒヨドリが庭のすみのツバキにやってきて、ブランコをしながら、花のみつをすっている。
午後、真弓さんから電話。”春休みにアルバイトにいかないか”といってきた。母に相談したら、”勉強の方さえよければ少しぐらいいいでしょ”とのこと。もちろん勉強第一だけどちょっとアルバイトをやり、小さい旅の費用をかせがなくっちゃあと思い、さっそくそのことを真弓さんに返事した。
真弓さんは”アルバイト先はどこがいいかしら、金額は…”というので、私は”おまかせするわ”といって電話を切った。
夕方、真弓さんからまた電話があり、「アルバイト先は名古屋市内の百貨店にきめたわ。父の知人がいるので、すぐ話はまとまったの。期間は一週間。日当は千二百円よ」と報告。「これで、ちょっとしたレジャーが楽しめるわねえ」と笑って電話を切った。「もうけること、遊ぶためのこととなると、まるで電光石火ね」と、母が笑った。
その夜、父は、退職する部下の送別会とかで遅くかえったが、お酒をだいぶのんだと見えて、ずい分よっぱらっていた。「人との別れはつらいなあ」とひとりごとをいい、やがて、「紅もゆる岡の花…」と歌いだした。
夕食後、真弓さんのところへ英語の参考書を借りにいった。二階の部屋で真弓さんと、おしゃべりに夢中になっていたら、突然、階下から大きな声が聞えてきた。どうも人が口論しているような様子。”なんだろう”と思ったら、”またやってるわ”と真弓さんが、お父さんと兄さんの争いの事情を話してくれた。「兄貴は大学の文学部志望なの。ところが父は、父のあとをついで、医者になるため、医学部に進めというの。その意見のくいちがいで、日課といっていいぐらい口ゲンカをやっているの。父もガンコなら、兄貴もガンコ、どちらも一歩もひかないので、あの通り」。
私は足音をしのばせて、玄関からそとに出たが、それを待ちかまえていたかのように「バカもの、勝手にせよ」というどなり声に、つづいて「ああ、勝手にするとも、オヤジの石あたま」という大声が聞えてきた。
”真弓さんとこみたいに、外から見ればなに不自由のないように見える家庭でも、一歩うちにはいるとあんな悩みや争いがあるもんなんだわ”と、私はかえりの道で思った。そしてふと、中学生のころ読んだ宇野浩二先生の「春を告げる鳥」という童話を思いだした。
むかし、北海道のアイヌの部落の酋長に一人のむすこがいた。酋長はその子を、自分よりもさらに強く、たくましく育てあげ、だれからも後ろゆびをさされないような立派な酋長にしたいと願った。
ところが、その子は酋長の思いとはうらはらに、性格はいたってやさしく、からだもそれほどじょうぶでなく、弓や矢をもって、野や山をかけめぐることなど大きらいであった。それどころか、木の実や草の葉などで上手に笛をつくり、さまざまな音色を出してそれを吹くことが大好きであった。
そのころ、アイヌの子どもたちは、十歳になると、男としてどれだけの苦しみに耐えうることができるか――そのきびしいテストを受けるきまりになっていた。このテストは、アイヌの部落を遠くはなれたさびしい山のなかの小屋で行なわれるもので、水も飲まねば、食物も食わないという大変な難行であった。
ある日、とうとう酋長のむすこもそのテストを受けねばならないことになり、追いたてられるようにされて、ひとり山の奥の小屋に向かっていった。
数日後、父親である酋長は、さすがに心配になり、むすこはどうしているのか――と山小屋をそっとたずねてみた。やはり、心配した通り、一人むすこは青白い顔で、ものをいう気力すらなく、いきもたえだえに衰弱しきっていた。いたましいわが子の様子を一目見た瞬間、父の胸のなかを、熱いものがどっとかけあがってきたが、酋長である父は心を鬼にして”なんたることだ、いくじなしめ”とむすこをしかりつけ、”あとしばらくだから”とはげまし、さとして小屋を出た。その父の後姿にむすこは何か訴えようとしたが、それすらもできなかった。
それから幾日かたったテストの最後の日、酋長はむすこの好きな食べものを持ちきれないほど用意し”元気でいてくれよ、いまいくから”と山小屋へかけつけた。しかし、山小屋のなかから人の気配はなく、むすこは地べたに倒れたまま息たえていた。酋長は冷たくなっているむすこのからだを抱きかかえ、何度も何度もほほずりをしてみたが、むすこはもう答えなかった。一人むすこを失なった父酋長は、仕方なく小屋の近くに墓をつくり、むすこが大事にしていた小刀や笛とともに、小さいなきがらをていちょうにほうむった。
葬式の当日、どこからともなく飛んできた一羽の小鳥が、悲しい声でこう鳴いた。「わたしは、あなたのむすこです。こんな小さい鳥に生まれかわりました。わたしは、春を告げる鳥のうぐいすです」と。
その鳥の鳴き声は、聞きおぼえのあるもので、むすこが生前よく吹いていた草笛とそっくりの音色をしていた。酋長はガクゼンとしてわれにかえり「あの子は、こうなった方がよかったのだ」としみじみ思った――。
いま、真弓さんのお父さんと兄さんの激しい口争いを聞いて、ここにも親と子の意見のちがいが生む対立をまざまざ見た感じだった。先日も志望校の決定をめぐり親子が大ゲンカをし、あげくの果て、子が父をなぐり倒したということが新聞記事に出ていたが、こんなことは世の中にいくらもあるのかも知れない。
どちらも、お互いの幸福を願っているはずなのに、一歩さがって相手を見つめる”心のゆとり”がないためにこうした悲劇が起こるのではないかと思った。
彰さんから返事がきた。「東京にも春がきたよ」という書き出しで始まり、近況報告のあと、私は一番気にしていた「家庭教師の相手は」やっぱり”女子高校生だ”と書いてあった。
「一人っ子のためか、わがまますぎるのが玉にキズだが、気立てはいいし、頭もいい。やる気もあって、教えたことを乾いた海綿が水を吸うように覚えてくれるのでやりがいがあるよ」といい、「なんでまた、そんなことに関心をもつんだい。よもやジェラシーからではないだろうね。万一、そうだとしたら、理沙ちゃんらしくないぞ」。と続き、最後に一行あけて「春休みには二、三日かえるつもり。話したいことは山ほどある。じゃあね」。と書きそえてあった。私の心はすでに春休みを待つ心になっていた。
東大合格者の発表。新聞にでている出身校ベスト20で見ると、いつもの顔ぶれが上位を占めたが、名門兵庫の灘高が、一校だけ百十五人と三ケタ台で、二位の東教大付属を大きくはなしているのが目立つ。九州・鹿児島ラサールが、地方校としては驚異的な合格率をあげたが、これにくらべて、かつてのナンバーワン・東京の日比谷高が十二位と、ベストテンからも脱落したのがひときわ目立った。ベスト二、三、四位がそろいもそろって国立という現象は、ここ何年来ないことのようだが、これは、こん後の東大への大量合格の秘訣を物語っているのかも知れない。
それにしても、ベスト20に入ったのは愛知からは旭丘一校だけとは情ない。灘高の校長先生の言葉として、「英才というよりも、生徒のだれもかれもがやる気に燃えている。だから授業のペースも早い。中三のころには、すでに、高一課程の勉強をしている」といっている。また、東教大付属駒場の校長先生は「うちは、特別東大入試のための勉強なんかさせていません。また、同じ六年制といっても、中三で高校課程を勉強するというような私立方式はとっていないが、やはり六年制教育の効果は大きい。もし、うちが、私立並みの六年一貫教育をすれば、全員合格できますよ」といっている。
東大入試では、高校三年間ではなく、中学の三年間の学力伸長をはかるのが有利にきまっている。東大入試で要求される英語の単語力は六千語といわれるが、私たちが中学でならった単語数は、その六分の一以下の約八百語余り。あとの五千語余りを高校三年間でマスターするというのは、実際的には不可能に近いことではないか。
夜、父にこのことを話したら「それはその通りだ。しかし、そういってみたところで、現実はなんにも好転しないだろう。好転しないものをあれこれいうのはグチだし、第一、エネルギーの浪費だ。中、高の六年間を一貫して教育する六年制の私立、国立より、別々になっている方が多いのだから、それを承知の上で、お前の場合、いまはがんばるのが先決ではないか。予習、復習をがっちりやり、自分のペースで進むのが大切…」と、父には珍らしく真剣な顔でいった。まさに”その通り”、と私は思った。がんばらなくっちゃあ!
東大合格ベスト10
(1)灘 兵庫 一一五
(2)東教大付属 東京 九八
(3)東京学大付属 〃 八四
(4)東教大付属駒場 〃 八三
(5)戸山 〃 八一
(6)西 〃 八〇
(7)開成 〃 七九
(8)湘南 神奈川 七八
(9)麻布 東京 七七
(10)鹿児島ラサール 鹿児島 七四
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(13)旭丘 愛知 五一
アルバイト一日目、書籍売場へまわされた。開店少し前朝礼があり、主任さんから(1)客の応対法(2)電話の受け方(3)休憩どきのすごし方など注意をうけた。真弓さんといっしょなので心強い。それでも最初は「ありがとうございます」がすぐに出ず困ってしまった。接客になれていないので、「シシュウのコーナーはどこ」ときかれ、詩集のコーナーに案内したところ、「うたのししゅうではなく、あみものなどのししゅうよ」といわれる失敗もしてしまった。
午前中は、お客さんよりも店員さんの方が多いくらいでヒマだったが、午後から入れかわり立ちかわりお客さんがありてんてこ舞い、買ってもらった本をつつんで渡すのにまた一苦労。先輩に手伝ってもらって渡したまではよかったが、相手の人がいつまでも立っているので、「まだ、なにか」ときいたところ、「さっきの本、六百八十円だろ。千円渡したのに、おつりをもらってないよ」といわれ、まっ赤になってしまった。向うのコーナーから、真弓さんがこちらを見て”くすり”と笑うのが見えた。
立ち読みの人が意外に多いのに驚いた。ひどい人になると、しゃがみこんでメモをとったり、二時間以上もあちこちの本をひろい読みしている人もいた。
閉店近く、本店員の山岡さんが、「熱いお茶でもきゅうとのみたいなあ」というのを聞いたので、早速、湯沸かし室にいき、お茶を入れようとしていた。そこへ、女子店員で一番年上の人がきて「どうして、いま時分、お茶を入れるの」というので、「村田さんが疲れたみたいでしたので」と答えたら、「あんな人甘えさせることないわ」。とはっきりいわれた。夜、家にかえったら、くたくたにつかれていた。
アルバイト五日目。仕事にも、職場の空気にもだいぶなれた。と同時に、それほど多くもない店員なのに、人間関係のイザコザがあることもわかった。何が原因かしらないが、一日中両方とも口をきかない店員たちもあるし、「なんだ、あのイバリぶり。あれでいて部課長の前にいくと、バッタみたいにペコペコしているくせに」と、係長のかげ口をきく人もいたりさまざま。職場なんていうところは、ちょっとした心のふれあいだけで仕事が楽しくなったり、ユーウツになったりするところだな―と思った。
午後三時ちょっとまわったころだった。私の周囲の店員さんが、急に「きたよ、きたよ」「ほんと、ほんと」とささやき合うのが聞えた。誰か店のえらい人が巡視にきたのかと思ったら、そうではないらしく、「私は、知らんふりしているから、あなたは、それとなく見はっていてよ」という。なんのことかわからなかったが、やがて、若いサラリーマン風の男が、主任さんにつれられてきた。持っている大きなふくろがふくらんでいる。開けさせてみると、ねだんの高い辞書類が三冊はいっていた。男はポケットをさぐって、お札を出し「これから払うところだったんだ」とムキになっていった。主任さんは「それは通らないよ。売り場から一階段下りてしまったじゃないか。それに、君はいままで何度もあるよ。うちでは注意人物になっていたんだ。運のつきだよ」といい「こっちにきて」と、その人をつれていった。
後で聞くところによると、保安係のところへ引き渡しにいったのだそうだ。
「大きな袋をもった人には要注意よ」と、先輩の店員さんがいっていたが、私はなぜか不快で仕方がなかった。万引きした人にも、店員さんに対してすらも…。
小さい旅、知多半島めぐりをした。もちろん真弓さんといっしょ。知多路は、花の独壇場であった。雪柳の白、桃の花のうす紅いろ、れんぎょうの黄などが咲き乱れ、本格的春の開幕を告げていた。バスの窓から見える渥美や伊勢の山々は、遠く淡くかすみ、波の白をなでる光はまぶしい。遠く近く、かげろうがもえ、おぼろおぼろして美しい野をぬうように、新四国めぐりのお遍路さんがいく。
真実一路の旅なれど
真実、鈴ふり 思いだす
白秋の巡礼賛歌をそのままに、半島に点在する八十八ヵ所の寺から寺へとめぐり歩くのだそうだ。
豊浜から二つめの停留所でバスを降り、歩いて岩屋寺にむかった。タンポポがあちこちに黄色く点々。その間をミツバチが飛びかっていた。どちらをむいても、山また山。どの山も小さく、かわいい。風はない。空は澄み切って、太陽は真上。行きかう村の人は、まったくの初対面なのに、軽くあいさつをしていく。
岩屋寺に着いて驚いた。お寺の堂の裏山には、小さい石仏がずらっとものの見事に並んでいた。あぐらをかいているもの、坐わっているもの、立っているもの、祈っているもの、さまざまな姿態をした石仏がまるで一年生たちみたいにずらり。
「これは、実は五百羅漢なんです。おしゃか様のお弟子さんで、半俗半僧の人々。ここには三百七十体ほどまつられていますのじゃ」と、住職さんが教えてくれた。
それにしても、この野仏たちは、何を語り、何を訴えようとしているのだろうか。枯れ葉のように乾いた”前だれ”など、だれも奪いはしないだろうに、両手でまもって放そうとしない。丸い頬に微笑をうかべている小地蔵は、白日のなかで何か夢でも見ているのだろうか。片手のない地蔵は、怒ったように天の一角をにらみつけていた。
ここへの参拝人は、年間約十万人。毎月十七日が大法会とのこと。いまから千二百五十余年前に建てられ、勅願所として皇室のご信仰のひとしお深かったお寺だった――、住職さんの説明。「チョンマゲ時代は、海を渡り、山を越え、ふり分け荷もつを肩に、とまりがけだったお詣りも、いまは、あんたらのように、バスにのっての安楽参り、世の中かわりましたなあ」と、老住職は、半分は私たちに、半分は自分にいい聞かせるようにいって、ハの一本もない口をあけて笑った。
かえりは、まわり道をした。小さい谷川を流れる水が、あるいは瀬となり、淵となり、急流となりながら流れていた。つづら折れの山道を登りきって山頂に立つと、左手にカニのハサミの形をした渥美半島はくっきりとうかんでいた。
汗をふきながら、もってきたおにぎりを食べたが、とてもおいしかった。真弓さんが「私の城下町」をうたい始めたので、私もいっしょに合唱した。
山を下った里の道ばたで、おかっぱ頭の女の子が、二人でつばきの花をひろいあつめていた。姉妹であろうか、くりくりしたリスのような丸い目の子たちであった。私たちは、そばの木の切り株に腰をおろし、しばしそれを見ていた。風もないのに、時おり、つばきの花がぽとり、ぽとりと落ちてくる。上の女の子がそれをひろい、下の子がそれを一つ一つ糸に通す。糸の先の方にハリがついているので、赤い花がするっと糸に通る。赤い花のネックレスでもつくるつもりなのだろうか。「あんなかわいい妹がほしいわ」と、真弓さんがいった。
家に帰ってみたらさすがに疲れが出て、日記を書くのに精いっぱい。「ごめんなさい、勉強ちゃん、きょうはかんべんしてね。」
春休みもきょうで終わり。「春休みにはかえる」といってよこしたのに、とうとう彰さんは帰ってこなかった。忙がしかったのかしら、それとも病気でもしたのでは……。いずれにしても、なぜ、ハガキで走り書きでもいいから知らせてくれないのだろう。以前は決してこんなではなかった。短くまるで電報みたいな文章だったけど、「かぜで二日ねちゃった」「尾瀬へいってきた。水バショウがきれいだったよ」「お堀に白鳥が泳ぎ出した」とか、知らせてくれたのに……。ころのごろはたしかに変わってしまった。
朝もやのなかで
その人とすれちがった
声をかぎりに 呼んでみたが
姿はなかった
林の なかで
目に見えぬ巨木から
たえまなく
落葉の降りそそぐのを見た
ものみな 寝静まった
夜ふけの空を
かけていく
幻の馬車の きしみを聞いた
幼いころ
日記のなかには
魔女のツエに
おびえたことがあった
夢のなかでは
いまでも
ほほ笑みかける人がいるのに
新学期スタート、いよいよ高校最後の年。入試まで泣いても笑ってもあと十一ヵ月余り。
もうすでに戦いははじまっている。一日たりともおろそかにはできない。みんな表面は、ペチャクチャがやがやいっているが心の中では必死のはず。
学校の帰り百貨店で、ノートなどひとそろい買った。まず、予習復習だけは徹底的にやることが第一。次に応用問題で、基礎が本当に理解でき、暗記がしっかりできているかやってみることにした。
「若さとは、可能性への挑戦だ」と、きょう先生がいったが、苦しくともやること。がんばらなくちゃあ―。
新しく高倉先生がクラス担任になった。これまで接触がなかったので”どういう先生”か知らなかったが、すごくおもしろそうな先生。担任になったあいさつがふるっている「ぼくはこれから一年間、君たちのめんどうを見ることになった。よろしく」と、ここまでは、これまでの普通の先生のような言い方だったが、あとがちがっている。「ぼくは形式主義はきらいだ。だから、しばしば脱線するかも知れない。しかし。君たちを思う心は、他の教師にひけをとらないつもりだ。かといって、君たちを甘やかすつもりは全然ない。愛するということは、甘やかすということではないはずだ」。
それから先生の自己紹介にはいったのだが、自慢話は一つもなく、失敗話ばかり。「子どものころ、ぼくは少し低能だったし、高校では百九十八人中百九十一番。二浪の末やっと入った大学でもあまり勉強せずビリから一番だった」。といい「勉強しだしたのは大学三年になってから。いまは退職されているが、鈴木という教授から、”勉強はおもしろいぞ”といわれ、ぼくは”ハア―”ちゅうてやりだしたら、面白くなったんだ。それで大学を出るときは二番だった。ただし、下から二番だったんだ」と、教室中を笑わせた。そのあと、「君たちも自己紹介をやってくれ。ただし、短かく、パンチのきいたものをやってくれ」といった。
前列の右はしの山本さんから順々に自己紹介していったが、ケッ作だったのは、石田さんのもの。「ボーイフレンドの数が学校一多い石田友子です」。「多いといって何人だ」「数えきれないくらいです」。「そのなかには、将来結婚してもいいと思うのがいるのか」「いいえ、一人もいません」。教室中がどっと笑った。吉村君もおもしろかった。「ヘンな質問だとは思っていませんが……」頭をかきながらいった。「どんな質問だい」と先生。「一つ質問してもいいですか」と吉村君。「ああ、いいよ」。「では、質問します。サカナには、耳があるのでしょうか、ないのでしょうか」。「クイズの時間じゃないぞ」と誰かがいったが、高倉先生は「ぼくの専門外なので、あしたまでには解答できるようにしておく」といっていた。
私は「誰もがつくれない料理をつくるのが特技の……」と自己紹介したら、先生が「誰もがつくれない――というのはどういうことだ」というので「これ以上はまずくつくれないという意味です」と答えた。
夜、夕食のときそのことを話したら、弟は「姉さんって、案外正直なところがあるんだなあ」といったが、母は「そんなこといったらお嫁さんのもらい手がないよ」と、意外にまじめ顔でいった。父は、どっちつかずで笑っていた。
学校から帰り、カバンを開けてびっくり。誰が入れたのか白い封筒にはいった手紙が一通。”なんだろう”と開けてみて二度びっくり。「おい、理沙こう、二年までの成績がいいからって秀才づらするなよ。聞くところによるとお前は国立一期校を受けるんだって。けっこうなことだといいたいが、思いあがりもはなはだしいぞ。それともなにかい、お前のおやじは役人だから、特別のコネでもあるというのかい。まあ、いいわさそんなことは。ただ、おれはお前のいつもとりすました顔が気にくわないのだ。三年になったのだから、もっと、普通の子のような顔をしてくれよT」。”T”って誰だろう。田中君か、それとも武田君か……、土屋君か……。それにしてもなんてヒドイ手紙だろう。私はヅタヅタに破ろうと思ったが、すぐやめた。あした真弓さんに見せて意見をきいてみることにした。
いまは、勉強、勉強。
学校にいく途中、真弓さんに昨日の手紙を見せた。真弓さんは読み終えてから、「ひどいレターね」といい、しばらく考えてから「私のカンでは、これきっと女の子よ、書いたのは……」といった。「だってそうでしょ。男がこんなこと気にするか知ら。男子なら、あなたにあこがれこそすれ、こんなへんてこりんな感情は持つわけないわよ。これは、もてない女の子の一種のコンプレックスであり、それをひっくりかえしたジェラシーのしわざよ」。と、その理由を説明し「こんなもの、無視しましょうよ。こんな愚劣なものを気にしていたら、肝心な受験勉強がおるすになるわ」といった。
「そうね」と、私は返事をしたが、心の底には、やはり一種の不快感が残っていた。誰なんだろう。こんな手紙……。
三時間目、内田先生のとき、ちょっともめごとがあった。ことのおこりは内田先生が教室にはいってくるなり、「これ、拾ったんだけど、なんだと思う」といい、黒板に何か書き始めた。月――カボチャ、ライオン、ナマズ、火――バク、ハゲタカなど、月曜日から土曜日までの時間割りが、先生のアダ名で全部書いてあるのだった。みんな顔を見合わせた。内田先生は「教師のアダ名でふざけた授業時間表をつくるとは、もってのほか」と言調荒くいい、「胸におぼえのある人は起立せよ」と迫った。
誰も無言。内田先生が、同じことを何度もいうので、高島君が立ち「先生、そんなこと僕らと関係ありません。授業を続けて下さい、万一関係あったにしても、僕らにとっては、授業の方が大事なんです」。とやりあった。
どういうわけか、最近目が疲れて困る。きょうは特にひどく、授業に身がはいらなかった。それは、すでに朝通学するときにあらわれ、学校前の歩道を渡るとき、一瞬ボーッと目の前がかすんで、もう少しで交通事故になるところだった。
教室でその話をしたら”私もよ””ボクもさ”と、クラスのみんなもいい、村田君など「目が疲れて困るけど、勉強しなければならないのでつらい。このごろは視力が落ちる一方だ」となげいていた。
学校のかえり、大学病院の眼科によってみてもらった。「体もつかえば疲れるように、目もからだの一部、深夜まで勉強し酷使すれば疲れるにきまっている。できる限り睡眠をとり、栄養をとって体力をつけることが必要」とのことであった。
母の日。「きょうは私が料理をつくってみるよ」と、珍らしく父が台所に立った。日ごろは、役所からかえると”つかれた、つかれた”といって、ごろりと横になる父が、きょうはどうしたことか、朝からハッスル。「おかげで、私はお役ごめんネ」と母が笑っていた。
しかし”父のお手並み拝見”の昼めし時になって、結局父の作った料理はぜんぜん食べれなかった。あとでわかったことだが、シオと砂糖を間違えて使ったのだ。「やっぱり、もち屋はもち屋でなくては……」とカブトをぬいだ。
このため久しぶりに親子四人そろって、町のレストランへ出かけた。弟が「結果的にはこの方がよかったね」とにくまれ口をたたいて、母からにらまれた。
胸の底には こんなにも激しい
おもいが 燃えているのに
わたしは とうとう 何もいわずに
彰さんと 別れ別れに なってしまった
時計の振子のように ゆれ動く心のなかで
私は どんなに それを
伝えたいと思ったかも知れないのに
それすらもできず遠く遠く離れてしまった
しかし いおうとしてもいえないうちに
もう いわないでも がまんできる
自分になって しまった
でも 心の秘密を
伝えなかったということは
二人の間に ”愛がなかったこと”と
同じではないかしら
そして私の 生きているということすらも
いまはもう
泣きたいとも思わぬ
泣くまいとも思わぬ
人の世のさだめを ただかみしめる
このところ、すっかり勉強に身がはいり、日記を書く時間もおしいくらい。
夜、隣りの部屋の弟が勉強を終えて明りを消したのが十一時半から十二時ごろ。私が勉強を終えるのは二時半から三時ごろ。ここ二週間ほど睡眠時間は平均四時間ぐらい。六時間睡眠などは夢のまた夢。父は「お前も、ナポレオンなみだ」と笑ったが、やはりからだはつかれる。きょう学校の昼休みの時間、机にうつ伏してねむっていたら、「だいじょうぶ? 勉強も大切だけど、からだをこわしたら大変よ」と、真弓さんにいわれた。”ありがとう”と私は真弓さんに笑ってみせたが、心のなかでは、こんなことを考えていた。「わかってはいるの。だけどいまは、苦しさの真っただ中へ、捨て身でぶつかっていくしかないの」。
朝、通学電車のなかでいやな光景にぶつかった。私と同じぐらいの女子高校生二人が相向いにすわり、窓側座席の二つにカバンを置いてペチャクチャおしゃべりをしていた。そこへ三才ぐらいの男の子と五才ぐらいの女の子をつれた若いお母さんがやってきて”そこあいてますの”とひかえ目ないい方でたずねた。子どもたちは窓ぎわにすわりたいらしく、もそもそしていたが、その子たちはちらりと顔を見合わせたまま返事をしようとしなかった。お母さんは、あきらめたようだったが、子どもにせがまれ、”あいていたら子どもをすわらせていただけないかしら”と、ふたたびいった。「友だちがくるんです」と、女子高校生の一人がいった。
やがて、発車のベルが鳴り、自動ドアが閉まり、電車はうごき出したが、友だちはこなかった。電車が郊外に出たころ、やっとカバンをとり二つの席をあけた。子どもたちを一つの座席に二人すわらせたお母さんは、もう一つの席へ、そばに立っていた男の老人をすわらせた。相変わらずおしゃべりをしている女の子たちに、その老人が「あんたたち、子どもがすわりたがっていたし、ほかに立っている人もいっぱいあるのに、なぜ、席をあけてあげなかったのだ。見れば学生のようだが、学校で何をならっているのか」と、強い口調でいった。すると一人の女高生が「学校で席をゆずれなんて教えてくれないもん」といい、もう一人が「こんな通勤通学時間に子どもづれでくる方がおかしいわ」といった。
老人もほかの乗客も”あきれた”という顔で何もいわなかった。他校の生徒ではあったが、私まで何かみんなに見られているようで恥かしくなり、次の駅でもう一つ前の車輛にのりかえた。
高倉先生がおもしろい実験を二つやってみせてくれた。
その一つ。男子十人、女子十人を指名し「いいか、これをよく見ておいて……」。といい、学校に近いバス停付近のスケッチ画を見せ二十秒ほどして絵をかくした。「いまの絵のなかに、タバコ屋があったか」「食堂は」といい、最後に「これからが問題だ。郵便ポストは絵の右側にあったか、それとも左側か」と聞いた。”右”と答えるもの”左”と答えるもの各人各様さまざまだった。五人目ぐらいにきたとき先生は何を思ったか最前列の山本さんのところにいき、なにやらささやいた。そのあと山本さんが「左側です」と答えた。すると、驚いたことに、山本さんのあとほとんどが「左側です」と答えた。私は「どっちだったかなあ」と考えたが、思い出せないので、「みんなと同じだったと思います」と答えた。先生は「右だといったものが三人、左だと答えたもの十七人」と結果報告し「実はポストなどなかったんだよ」といった。先生はこういった。「大事なのはここだ。毎日通っている道ですら、この程度の記憶しかないんだ。と同時に、ありもしないポストを、だれかが”左”といったから、自分も”左”といわねば――という、この集団に支配される人間心理の弱さ、恐らく一人や二人は”ポストなどなかったのでは”と思ったものがあるにちがいないのに、みんなが”ある”ことを前提として”右””左”といっているときに、自分一人が”ない”ということの出来る勇気のなさ――。こんなあやまちを、われわれは日常いくつもおかしているかも知れない。ぼくのいいたいのは、自分が納得できないことは、みんながそうだといったからといって、同調するなということだ」と先生はいった。
もう一つの実験。
先生は、今度も山本さんのところにいき、紙きれを見せてなにか指示した。そのあとで「いま、山本君のところから、ぼくのいったことを次の人に伝える。次の人はそれをそのままその次の人に伝える。こうして最後の石田君は、自分の聞いたことを、黒板に書いてくれ」といった。やがて、山本さんから口伝えのことばが次々とクラス中の人の口から口へと言い伝えられ、私を通り、真弓さんのところも通り、最後の石田君のところまでいった。
石田君はやや緊張した顔で教壇の前まで進み、黒板に考え考え文字を書いた。「あすの午後三時二十分新幹線”ひかり20号”で上京します」。
石田君が席にもどると高倉先生は、さっき山本さんに見せた紙片を手にしながら「これがぼくが一番目の山本君にいった言葉だ」と、黒板に文句を書いた。
「あさっての午後三時二十二分名古屋駅発の新幹線”ひかり25号”で上京します」。
「比べてみるとわかるが、二つは似てはいるが、内容はまるっきりちがう。最近情報社会というが、実は、情報とはこういったものが多いのだ。たったこれだけのことでもこうもちがう。あさってがあすになり、三時二十二分が三時二十分となり、ひかり25号が20号になってしまっている。これでは全く用をなさんことになる」。
私は先生の話をきいているうちにこんな人間の弱さ、あいまいさを悪用されたら、とんでもないことになるのではないか――とリツゼンとしてしまった。
下校のさい、高倉先生の見せてくれたデッサン画の場所を通るとき、ポストをさがしたがやっぱりなかった。私がよっぽどきょろきょろしたらしく真弓さんが「どうしたの、おとしもの」といったが、私は笑って答えなかった。
朝からしとしとつゆやまず。教室でもみんなうんざりした顔ばかり。
学校から帰ってみたら机の上に母の置き手紙があった。メモ帳の上に走り書きで、「田舎のおばあちゃんが急に倒れたそうなので、ともかくいってきます。夕食はおすしでもとるか、自分で好きなものをつくるかしてね、パパは遅いそうだからいりません」。
梅雨時のおすしでお腹でもこわしたら大変。考えた末、天ぷらでもすることにした。ところが、天ぷら油で、野菜をいためようとしたら、すごいアワ立ちがして、あやうく大やけどをするところだった。
結局、大通りのうどん屋さんまで出かけ、天ぷらうどんを食べた。弟は大もり。やはり、母がいないと不便この上なし。母のありがたさを改めてしみじみ知る。
おばあちゃんがよほど悪いのか、きょうも母は帰宅しない。弟は、夕食後デーンとテレビの前にすわってマンガ番組ばかりみている。八時ごろになっても、まだいっこうに立つ気配がない。「宿題は、由紀ちゃん」というと「ないよ」「でも由紀ちゃん、きょう学校から帰って、一度もカバンを開けた様子がないわ。宿題がなくても、一度は教科書に目を通しておくべきよ。予習、復習だけは欠かしてはダメよ」とぴしゃりといってやった。「だってさ、うちで勉強しなければならないことがあれば、先生がそれを宿題に出すよ。なにも出さないということは、家でやらなくてもいいということさ」と、うごく気配はない。普通なら、どなりつけるのだけれど、きょうはこれでうち切った。由紀夫も母がいなくてさみしいのだろうと思って……。
久ぶりにつゆ空に晴れ間が出た。月曜日なので、母の着がえなどを持って田舎に行く。おばあさんは”恍惚”もいいところで、おむつをしてねていた。それでも、私を見ると「ようきた、ようきた」といい、敷きぶとんの下から袋をとり出し、「おこずかいのたしにせよや」といって、小ゼニをくれた。がよく見ると、いまは使えない昔の金であった。それをいうと母は苦笑して「もう八十七だからねえ」。といい「先夜も夜の夜中に”ふろにはいる”と大さわぎをしたり、夕ごはんをあげたのに、”まだもらっていない”とダダをこねたり……」。とあきらめ顔でいっていた。母は、私がいる午前中に二度もおばあさんのおむつを洗った。そんな母を見ると、「いくら自分の母親でも」と、母がかわいそうでならなかった。
きのうは、数学、英語、国語を中心に、夕方から深夜までみっちり勉強。おかげで予期以上に進んだ。ちょっと一休みと、深夜ラジオのディスクジョッキーを聞いてみた。深夜放送をきくのは久しぶり。父母たちの睡眠のさまたげになってはいけないと思い、ボリュームをぐっと小さくした。それにしてもにぎやかなことこの上もなかった。
しかし、きょう、あれは何の番組だったかな、あの歌はだれの歌だったかなと思い返してみても、心になんにも残っていないことに気づく。深夜の孤独を慰めてくれるのとか何んとかいったって、しょせんは、甘ったれているだけではないのか―と思った。第一、大部分のヤングミュージシャンの音楽に対する姿勢のハレンチなこと、ミミをおおいたくなるくらいだった。
中間テストの成績が発表された。私の平均点は九十二点。他のクラスに九十四点の子がいるそうだ。くやしい。自分のクラスでは一番だと思って、いつの間にやら私はテングになっていたのではないか。きびしく、きびしく自分をしごかなくてはならないのに、いつの間にか、クラスのペースにはまっていたのじゃあないか。そういえば、この間の日曜も半日遊んでしまった。こんな甘いもんじゃあない。大学への道はもっともっときびしいはず。浪一、浪二の人でも受験勉強を投げ出したいといっているぐらい、きびしい世界のまっただ中にいるんだ。油断大敵、もつと必死になって勉強をやろう。
また、カバンのなかに「いたずら手紙」がはいっていた。だれだかわからない。こんどは真弓さんにも言わない。言っても仕方ないもの。「きみは、オツにすましているから、こんな言葉は知らないだろうが、目下流行のこの言葉を知らないとソンをするぞ。参考のために少し教えてあげる…」
という前文につづいて、いくつもの流行語とやらが書いてあった。
パイデカ=でっかいおっぱい
カッコーバック=うしろ姿のいいヤツ
オサラ=レコード盤 めん=人相、顔
あいちゃん=スリ 買い物=万引き
しろとり=新まいの巡査 きす=酒
マブスケ=恋人 カンリョ=旅館
A=キス たろう=田舎もの
関西の公立高校生を対象にした「性意識調査結果」というのが朝刊に出ていた。それを読んで「本当だろうか、この調査結果は」と私はすぐ思った。データー(1)の「現在異性の友だちがある」の項で、男子は四二パーセント、女子は四一パーセントというのはうなずけるにしても、データー(2)のように「セックス交渉は自由に行われていい」つまり、フリーセックス是認組が、男子で五三パーセント、女子で二三パーセントとなっているが、これでは、高校生の男子二人に一人、女子は四人に一人の割りで「セックスは自由であるべき」といっていることになる。少くとも、私の学校ではこんなことは絶対ない。一部にはそう考え、そう行動する人があるかも知れないが、ほとんどの生徒は、そう思わないはず。いまの私たちは、青虫であって、蝶ではない。蝶になる前の青虫が、大人の蝶の真似や同じことを肯定すること自体がおかしい。青虫である私たちは、やがて大人になるための準備をしっかりやらなくてはならないはずだもの。
さらに、データー(3)の「セックスの目的は、快楽のためであって、子孫を残すことではない」の項では、その通りというのが男子で五五パーセント、女子で三五パーセントもあった―というに到っては、まったく信じられない。それなのに、データー(4)の「性意識は全然ない」の項では男子八五パーセント、女子で九四パーセントが「性知識なし」と答えているという。データー(5)では「いま一番何を知りたいか」の項では、男子は「女性の心理」、女子でも「男性の心理」がトップにあげられているが、ことここにいたって、私はハラが立ってきた。”何をいっているのか”といいたい。もう少し、高校生の実態をみてほしいと叫びたい。水面にうかんだ氷山の一部分のみを見て、肝心の水中に沈んでいる九分の八を見落さないでほしいものだ。
このごろの新聞を見ていると、高校、大学受験のための悩み、そのためのトラブルがまるで日課のようにおきている。きょうの朝刊にも受験ノイローゼの子どもを殺した母親のことや、受験勉強の苦しみに耐えかねて自殺した高校生のニュースが三つものっていた。
しかし、世間のこうした受験の緊張感とは逆に、うちのクラスの人たちの教室での風景は、まことににぎやかである。
昼休みだからとはいえ、きょうもマンガをよみふけるもの、トランプ、将棋からギターを仲よくかなでるカップルまでいた。机の穴にエンピツで消しゴムをホール・インさせる「テーブル・ゴルフ」に余念のないものもいるし、教室の後ろの掲示板もさまざまな自動車の写真でいっぱい。
あちこちで車座になって話している会話も、まことにたわいのないものが多く、受験の悩みなどほとんど話し合わないのが普通。私たちの学校がいわゆる県下でユビ折りの名門校であるという自負と安心感からだろうか。いや、そんなことはない。だれもかれも、胸の底には、いい知れぬ不安とあせりとファイトをもっているはずなのだ。それを少くとも人に気づかれないようにしているのは、それだけ内部での闘志がはげしいからではないだろうか。それが証拠には、きょう出た学校新聞に”XY生”の仮名で、だれかが心のなかを紹介している。
「ぼくたちは、スポーツ、政治、経済、チャーミングな女性と、なんでも目をそそがずにはいられない。しかし、最も熱を入れ、真剣になってやるのは、幼稚な、そして最高に単純なゲームなのだ。トランプ、ショウギ、パズル、クイズなど、実にくだらないことに時間をついやすのは、ひとつには、偽装であり、ひとつには逃避なのだ。つまり、いつも頭のなかにイモリのようにこびりついてはなれないあのコト、受験のことを忘れたいからだ。それにしても、みんな仮面をかぶることのなんとうまいことか。他人のみか自分すらごまかそうとしている。受験なんて、この世からなくなってしまえ! 永遠に…」。
やっぱりみんな苦しいのだ。しかし、この苦しみに負けてはならない。いまが大事なときなのだから。負けるのは落伍者だし、ましてや自殺なんて弱虫のすることだもの…。
待ちに待った彰さんがかえってきた。夜八時ごろ”電話ですよ”という母の声に、いまごろ誰かしらと思って出ると、彰さんだった。最初電話口で「ぼくさ、わかるかい」といわれたとき、すぐに”あっ、彰さん”とわかった。「理沙ちゃんをびっくりさせようと思って、予告なしでかえってきたのさ。八月中ごろまではいるつもり。いろいろつもる話があるので、あした会いたいな」といった。もちろん、私に異存があろうはずがない。私はすぐ承知し、場所と時間を打ち合わせした。彰さんがかえったことが、こんなにうれしいことなのか―、私自身不思議なほど、私の心ははずんでいた。「彰さんからなの」と、母がいったら、弟が「あしたは、おたのしみでしょう」とにくまれ口を聞いたが、私にはそれすら心地よかった――。
約束の時間に地下街の「パーラー」にいったら、もう彰さんはきていた。「待ったの」というと「いや、さっききたばかり」といったが、そばのタバコのすいがらの数からみて、だいぶ前から待っててくれたことがわかり、私の心はさらにうれしさを増した。
彰さんは東京のできごとをあれこれ話してくれた。私は私で、とりとめのない身辺雑事を報告したが、彰さんは「ふん、ふん」とか「なるほど」とかあいづちをうちながら話をきいてくれた。
”さようなら”という言葉を
そのまま自分にも言い聞かせ
夕ぐれの道を家路に急ぐ
私のこころは
すでに明日を待つこころなのだ
忘れようと机の前にすわり
本を開いているはずなのに
思いはいつの間にか彰さんの上に
夜ふけ
ひとり部屋の窓辺にもたれかかり
私は
星をかぞえる人形となる
時計の針におびやかされ
床にはいるのだが
眠ろう眠ろうとすればするほど
思いははてしなくひろがり
軒をうつ 雨だれのように
いつも いつも
同じことを…
一学期のテストもきのうで終わったので、きょうは、母の許しを得て彰さんの車で遠出のドライブとしゃれた。知多半島を南下、半島の南端から伊良湖岬までフェリーボート。デッキに立つと、涼しい潮風がホホをたたき、気持がよかった。恋路が浜を歩くとき、彰さんが「名も知らぬ遠き島より流れくるヤシの実ひとつ」と藤村の詩を口ずさんだ。太平洋の黒潮を眺めながら、おむすびをパクツク。豊橋から東名高速の豊川インターに出て、一直線に名古屋へ。楽しい一日だった。路々、お互いが学生であるという気楽さから、私たちは、いいたいことをおしゃべりしたし、それがかえって、二人の気持をぐっと近づけたようであった。しかし、そういう時間をもとうとすればできたはずなのに、私たちはキス一つしなかった。どうしたことかしら…。
早朝、彰さんから電話。「急に東京へかえらねばならなくなった」というのであった。「どうして」と聞くと「わけはあとで知らせるよ。いま名古屋駅にきているのだが、間もなく上り新幹線がつくので、これでごめん」と、電話は一方的にきれてしまった。私は、頭のなかがおかしくなったようにポカンとしていた。母が「どうしたの」というので、ことの次第を話した。「へんねえ、どうかしたのかしら…」と、母も理解できがたいといった表情だった。
「どんな、予期せぬ出来ごとがおこったのか」と、私の心のなかを、不吉な予感が走り去った。もうすぐ、夏休みにはいるというのに、私はたたきのめされたような気持になった。もう、きょうは勉強もイヤ、日記もこれ以上書くのはイヤ。
夏休み。午前中の涼しいうちに勉強。午後から買いものに出た。百貨店は冷房がきいていて涼しかったので、あちこち歩いていたら、B組の竹内君に会った。しばらく立ち話していたが、「お茶でも飲もうか」というので、七階のテイルームにいった。竹内君は成績もいいし、家がお医者さんなので育ちがいいためか、これまで三、四回お茶をのんだりしたが、一度だって、ほかの人の悪口をいったことがない。私は、同級生以上の好意を感じてきたが、きょうも、とりとめのない話をしただけで「じゃあ」といってあっさり”さよなら”
彰さんが東京へいって以来、郵便箱をのぞくのが私の日課になっているがきょうも彰さんからの手紙はこなかった。いったいどうしたのだろう。もうきょうで十日あまり。
郵便屋さんの気配に出てみたら、箱に手紙がはいっていた。”彰さんから”と取り出してみたら、竹内君からだった。なんだろうと開封してみてアッと驚いた。まぎれもなくラブレター。まさか、あの竹内君が―。私の脳裏を竹内君の白い顔が浮んで消えた。
「この手紙を書くまで、僕は、ずい分長い間迷いに迷った。自分の心にいささかの不純なものがないにしても、入試を前にした大切な時期に、君を驚かせ、悩ませることがあってはと心配したからだ。
でも、もう、これ以上、自分の心を抑えることはできなくなった。許してほしい。」と前書きし、「君を特別意識しはじめたのは、二年の秋ごろからだった」と続き、その間の事情をこまごまと説明してあった。そして最後に「ともに高校生である私は、いま、君になにかを求めようというのではなく、会うだけでいい。二人だけで、どこか静かなところで話し合うだけでいい」。と訴えていた。
私のこころのなかは、喜びより先に驚きでいっぱいであった。あの冷静な竹内君が、どうしてこんな激しい手紙をよこしたのであろうか―。彼の気持が、苦しみが、この手紙のなかから、いやというほど理解できれば、理解できるほど、私のうかつさ、無神経さが腹立たしかった。
私はこの手紙のことを母にもいわなかった。ただ、同じ進学組の一人として、竹内君のこころをこれ以上苦しめまいと思い、短かい返事だけを書いた。
「お手紙よみました。おこころはありがたいと思いますが、いまは、お互いのこころを、これ以上育てないほうがいいのだと思います。どうか、悪くとらないでください」。
すべての歓びの消えた わたしの胸に
ただ一つのこった この蒼いろの悲しみを
わたしは一重の花にさかせたい
あなたが私の胸に
知らない間にのこして行った
この一粒の 悲しみの種子を
わたしは涙で育ててみせよう
一年のどんな季節にも 花ひらき
一生のどんな時期にも 匂いたち
あなたが私に
偶然でなかったことを
死ぬまでかかって証明しよう
きょうから二学期。
高倉先生の言葉「これからが一番大事なとき。一日一日をみっちりやったか、どうかで差がつくときだし、あとで泣こうとわめこうととりかえしのつかないことになるのだ。思いきりがんばってほしい。こうした時期を、世間では”受験地獄”などというが、ぼくはそうとばかりは思わない。人間の成長期には、こういった緊張の時期はあってもいいと思う…。将来かならず役に立つし、いい思い出にもなるはず…」。
それにしても、彰さんはどうしたことだろう。あれ以来なんにもいってこない。二度出した手紙も二度とも「受取人不明」でもどってきた。何があったというのか。住所までかわったらしい。でも、私にはどうしようもない。ただ待つのみ、彰さんからの便りを。
このごろ、クラスのみんながモーレツに勉強しだした。きょうも弁当も食べないで、参考書とにらめっこしている人が二、三人もいた。休み時間どころか、授業中でも机の下に問題集をおいてやっている人もいた。それにくらべて、私はどうだ。いまの程度では実力不足で落ちるのが目に見えている。もっとも勉強しなくてはと思っても、気ばかりあせってできない。それでいて、他の人がとても気になる。もし、真弓さんやみんなが合格して私だけ落ちてしまったらどうしよう。ああ、こうしているうちにも、時間はおしみなくどんどんたっていってしまう。困った。困った。こんな日記なんか書いているヒマがあったら、どしどし勉強すればいいのに…。
昼食後、教室の窓から運動場を眺めていたら、竹内君が近づいてきて「こんどの日曜日の午後、名鉄で郊外に出てみない」と、そっと声をかけてきた。私はしばらくしてからクビを横にふった。「どうして」と竹内君。「どうしても」と私。「午前中みっちりやってさ、午後郊外のうまい空気を吸ってさ。OKしろよ」と、語調を強めて竹内君。私はやっぱり”いやいや”。「冷たいんだなあ、理沙ちゃんって!」と、怒った声でいって、竹内君は行ってしまった。「竹内君となら…」と内心思っているのに、どうして私はムゲにことわってしまったのだろうか。私にもよくわからない。
きょうの私は、ちょっとどうかしていたようだ。土曜日だというので、あちらから、こちらから、「ボーリングに行かない」「映画に行こうよ」とさそわれたのに、”ヒマがないのよ”と、もっともらしい言葉を連発してことわり続けていたんだもの。「進学組は、だれだって忙しいよ。きみも忙しいのは結構だが、そういう人に限って、むだな時間の使い方をするもんさ。本当に時間を自分のものにすれば、ちょっとぐらい余暇をたのしむ時間は生まれるよ。勉強勉強と、時間に振りまわされっぱなしは、いやだなあ」といった竹内君の言葉に、私はハッとなった。
そういえば、私たちは、朝から深夜まで、大学、大学と、勉強ばかりやるように仕向けられているがすべてをギセイにして、何のために大学に進まねばならないのだろうか。そんなことを考えていたらもう二時だ。あすは日曜、眠ろう。
父と母にたのんで、おこづかいをもらい、奈良へ日がえりの旅。やっとかなえられたひとり旅への願い。うれしい。もっとも父母には友だち三人といっしょ、といったが。
道ばたに石のお地蔵さんがチョコンと立って、手を合わせているのがかわいかった。バスをのりかえ、寺院をいくつかまわるのはつらかったが、ひとつでも多くを見ようとがんばった。草の葉をむしってかんだりしながら、田舎道を歩いた。楽しかった。
ものいわぬ仏像が好き
言葉のいらない古い寺が好き
雨の降っている池が好き
青い梢をぬらして
白い花をぬらして
ここを愛した人の歌をぬらして
石仏のある道をいくのは
若い僧と老人と二人の
旅人とわたし
石仏のほおをつたうのは
わたしの涙か
バスのなかで、若いママにだかれた赤ちゃんを見た。まだよく口がきけないらしく、ただもみじのようなかわいい手で、ママの胸のあたりをたたいていた。目と目があうと、若いママは笑って赤ちゃんにほほずりした。赤ちゃんはそのたびに、キャッキャッと声をあげた。私にもあんなころがあったのだろうか。あのころは何を考えていたのだろうか。もう一度、赤ちゃんのころにもどりたいな。十年後、私もあんな赤ちゃんをだくママになっているのだろうか。そして一日一日としをとり、老いさらばえておばあちゃんになるのだろうか。ああ、いやだ、いやだ。そんなことを思うのはまだ早い。べんきょう、勉強、ベンキョウ。
一日一日と、とりかえしのつかない尊い日がすぎていく。もう、泣いても笑っても、半年たらずで入試だ。それなのに、どういうわけか思うように勉強がはかどらない。不安とあせりばかりでいらいらする。自信をもとう、希望をもとう――と必死になるのだけれど、ハッと気づくといつの間にやら、わけのわからぬことばかり考えている私。どこへいってしまったのだろう、高二のころまでの、あの自信と自負にみちみちた私は。きのうもきょうも、不安とあせりで、心のなかが柱時計の振子のようにゆれうごいているばかり。もし試験に失敗でもしたら、恥ずかしくて買いものにもでられない。もっと、きびしくやれ。
カバンのなかに、いつ入れたのか、竹内君からのレターがはいっていた。「深夜、勉強していても、君のことが忘れられず、いまから飛んでいって、ひと目会いたい気持ちでいっぱい」「忘れようと思えば思うほど忘れられない。東大なんてうからなくてもいい」などと激しい言葉が並べてあった。私はそのレターをズタズタに裂いて、ちりかごに捨てた。
私の心も、竹内君のところにいますぐ飛んでいきたいのに。なぜ、どうして。
ひとたび言葉になって
あなたの魂があらわれると
本当のあなたでなくなる
ことを知ってください
そのまま蓄えて
よどみや芳香で
肥えた土質になるまで
待てるかどうか
ためしてください
背をおおう 愛の重量
あなたの若い肉体が
その労に生涯耐えうるか
聞いてみてください
一夜の告白が
千夜の悔恨を呼ぶことが多い
私と同じとしのあなたは
いまひとことを話そうとする前に
黙ってしまっても
決して 恥ではないのです
これは、坂本明子という詩人の「雪崩の楽章」という詩の一部です。いまの私の心境にぴったりですので、お送りします。どうか、わかってください。そして、こんなことに気を散らさないでください。どんなときでも冷静で、しゃんとしていた、これまでの竹内君でいてください。これは逃避の言葉でなく、小さい女のまごころだと解していただけたら…。
この手紙を、すぐ、思いきって私はポストに入れた。ほっとすると同時にさびしさもあるにはあったが、でも、これでいいのだと思った。いつかはわかってくれるだろう…。
母がとつぜん、急病になった。昨夜、十一時すぎのこと、母の部屋で、ぎゃあーという叫び声が聞えてきた。英語の勉強をしていたが、私はびっくりして母の部屋にとびこんだ。父が母の背中をさすりながら「急に痛みを訴え出した」。といった。母は手足をバタバタさせたあと、ほんのしばらくうつむいたまま、うなっていたが、少しするとまたのたうちまわっての苦しみよう。父はあちこち病院へ電話をしてみたが、どこもテイのいい理由でことわられたといい、結局、救急車をたのんだ。父と弟といっしょに病院まで救急車に乗ったが、母のタンカの周囲は生々しい血が飛び散っていた。「いま、交通事故での重傷者をはこんだばかりなので」と、消防署の人は言いわけをしていた。朝方まで、みんな母のそばにつきっきりだった。
母の病気はどうも”胆のう炎”らしく、モルヒネ注射をしてもきかないほど進行している模様。それでも朝方には少し痛みがとれた表情で「理沙ちゃんも、由紀ちゃんも学校へいって。もう、大じょうぶよ」といった。父も「わしがきょうはここにいるから学校にお行き」といった。
学校には出たが、やはり母のことが心配で授業に身が入らなかったし、第一昨夜いっすいもしていないので、ねむくてねむくて仕方なかった。
「なんだか変ね、きょうは」と、一、二の人が同じことをいったが、私は理由を説明するのもわずらわしいと思うくらいくたくたに疲れていた。
学校からかえるとすぐ病院に行き、今夜は母の病院にとまることにした。
昨夜、ずい分うなされたらしく母にゆりおこされた。そういえば変な夢だった。私は一人ぼっちで川のほとりにいた。空には金いろの鳥が群をなして飛んでいた。川の流れに飛びあがる魚は透明だった。お母さんが大きなカッコウになって、木の上で鳴いていた。私は声をかぎりに母を呼んだが、こたえはなかった。なんで、あんな夢をみたのかしら。
倫理社会のテーマに、最近多くなっている”自殺問題”をとりあげた。いろいろな意見が出たが、”自殺は悪い”という結論にはならなかった。
それにしても、なぜ、このごろ、自殺する人がこうも多いのだろう。この三日間連続、それも公立高校生ばかり。
下校のとき、真弓さんらとこの問題を話し合った。「やっぱり、受験苦じゃないかしら」と真弓さん。「そうね、そりゃあ、私だって、進学のことで、あせり、いらいらすることはあるわ、でも、死ぬなんて考えられないわ」と笙子さん。「自分のみにくさ、つまらなさや、人を傷つけたり、人からすごく傷つけられたときなど、死を考えることはある。でも、死ぬのは、逃避じゃない」。と町子さん。「一種の流行よ。みんな死ぬから、わたしもってね。シンナーがはやっているのと同じじゃないかしら」。と良子さん。私は「もっと複雑なはず。受験体制だけが原因ではないと思うし、ましてや、流行だからというのは早がてんすぎると思うわ」といったら、みんな「理沙はいつも慎重論派ね」って笑った。
母が入院してすでに五日。母のいない家のなかは火の消えたよう。あのテレビ好きの由紀夫が、あまりチャンネルをひねらず、勉強部屋にはいったまま。
父も元気がない。ささやかな夕食をすませ。片づけをおわると夜になったばかりなのに、家のなかは、柱時計の音ばかりが響くばかり。小さなチャブ台を間に、父と私はだまって向き合ってばかり。話したいことはいっぱいあるのに、言葉にするものは何もないように口をつぐんだまま。時計が鳴ったのをしおに、私が勉強部屋に行こうとしたら、「ああ、そういえば、母さんが、あしたは日曜日だから下着類をもってきてくれといっていたよ」と、父がいった。
母のところへ持っていく下着を探すため、タンスのあちこちをひっくりかえしているうちに、私はタンスのスミに思いがけないものをみつけた。それは、彰さんからの手紙であった。二通あったが、二通とも速達。すでに封が切ってあったので、私はすぐ目を走らせた。「この間はごめん。急に東京へかえってしまって。二年ほど前、学生運動を激しくやって追われている友だちのことで、しつこく警察がぼくのまわりをかぎまわるので、急に住所をかえることにした。こまかいことはいずれまた」。
と書いてあった。もう一通は、「例の家庭教師のもやめた。やめたというより、やめざるを得なかったという方が正しいかも知れない。しばらく、便りは出せないが、あしからず。周囲がおちついたら、また…」。と書いてあった。
ああ、なぜ母は、私にこの手紙を見せてくれなかったのだろう。私は脳天をたたきつけられたようなショックをうけ、”母すらも信じられないのか”と、たまらなくなった。”母が憎い”、こんな思いは生まれてはじめてだが、いまの私は”母がにくい”。
もちろん、病院にはいかなかった。勉強が忙しいからと、由紀夫にいってもらった。私は机の前に、化石のように坐わっていた。母への憎しみと、彰さんへの思いが、私のこころのなかで行ったりきたりした。
夜になると、さすがに怒りはおちつきはじめたが、いいようのない悲しみだけが拡がっていた。いまさら母を憎んだとてなんになろう。母とて、私の心を乱すまいと考えたすえの行為であろうから…。
ここ三、四日、夜どうしても眠れない。入試のこと、母のこと、彰さんのことなど、つぎからつぎに思い出されてしまうからだ。ねむろう、ねむろうとすればするほどねむれない。そうした睡眠不足がたたってか、きょうは頭がいたい、気分がわるい、はき気すらする。食欲もない。わけもなくイライラする。通学電車のなかで人と肩がふれあうと、急にハラが立つし、クラスの人が、大声でしゃべりあっていると、わけもなくムカムカとしてくる。おしゃべり人形のようにしゃべりつづける先生もわずらわしい。父や弟と顔をあわせるのもイヤだ。
いったいどうしてしまったのか。私は自分の知らぬ間に狂ってしまったのか。まてよ、二と二をタスと四、五掛ける五は二十五――まだ、一応正常のようだが…。
理性が 私のすべてに干渉をはじめたら
つぎに 感情の消滅がやってきた
そして 私のたのみにしていた 理性も
間もなく 行き詰まってしまい
しだいに 姿をくらましてしまった
核心と軌道を 失なってしまい
なんの味もない 空虚なくる日くる日
残った 肉体だけが 昔からの習慣で
堕性的に 動いているだけ
感激が 感傷が そして後悔や
思い出といった 人間的要素までが
自分の内部から
つぎつぎと 抜けてゆく
それでも わずかに余命を保つなにかが
神経をシゲキし
うつろな眼が 反射的に
空間に よみがえりのオゾンを
探しもとめている…
きょうも一日中誰とも口をきかずじまい。真弓さんと話すのすらめんどくさい。
運命の神って、どうして、私だけ”こういじめるのだろうか”。私から彰さんをかくし、母をはなし、勉強する力をうばってしまうなんて!
私はもうだめ。すべてに行き詰ってしまっている。なにもかもがうっとうしく、わずらわしい。
机に向かっても、数字がくるくるまわり、活字がぼやんとかすんで見える。
また、夜がくる。母のいない、ねむれない夜がこわい。
きょうは朝からずっとイヤなことばかりだった。調子あわせ、ごまかしあい。どうしてみんな、自分のなかに、あんなにたくさんのウソを飼っているのだろう。
草のクキをかみながら
夕ぐれの道を私はあてもなく歩いた
落日がむしょうに美しい
人間は人ごとのわずらわしさに
耐えきれなくなったとき
自然の美しさに
目覚めるのかも知れない
一本の草にも涙が流れる
もう死んでしまったのか 私のこころ
思いはあふれるのに
なんにも書けない
勉強に身がはいらない。ぼやっとしている。先生に注意された。あんなに好きだった国語もきらい。まして数学なんか、本を開くのもいや。日記を書くのもいや。
なにを見るのも
聞くのもわずらわしい
つかれた
ねむい
ねむることだけが
いま私には
ただひとつの救いなのだ
”何のために生きているのか
わからない”
”もう、誰も信じられない”
”愛がむなしい”
”死にたい なぜだか 私に
はわからないが”
”でも 負けたくない 苦し
みに”
”強く 生きたい”
”お母さん お母さん”
******************************
引用終わり。
新装版の最後の日記の後に書かれている理沙さんの詩
(注:この詩は最初の物には収めれれていません。)
-
以下引用。新装版の112ページ から 115ページ
******************************
この わたしの無言のうちに
わたしの眼ざしの向かうところで
しずかな夢だけが
いつも虹の実を結んでくれればいい
そんな夢だけが
生まれ出ようとして
わなないてくれればいい
いつも かたいわたしの額の下で
もろもろの欲望が織られる前に
ああ そんな夢だけが
いつもわなないてくれればいい
しようこともなく
悲しげにうなずく わたしの前に
胡蝶蘭の白い花だけが
密かに 話しかけてくる
お前もやっぱり ここへきたのか
深い 深い 霧の谷間へ
過ぎた思い出は みんな
雪の下に 埋めるがよい
なげきも 悲しみも いま
ここに 捨てるがよい
そして お前は 静かに
天国からの 笛を聞きながら
息をたつがよい
魔法のツエで
こつこつ誰かがたたいても
お前はもう よみがえろうと目を開けるな
見るがよい お前には
もう影が ないのだよ
歌って あげよう 懐しい
幼いころの
母のうたった 子守りうたを
お前のまぶたに
銀の馬が 浮かび
黄金の鳥が
黄金の涙を 落した
ああ お前は
とうとう 死んだ
すべては 終った
さようなら さようなら
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引用終わり。
三冊のあとがき・最初の物
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以下引用。最初の物の133ページ から 135ページ
******************************
「十七歳の遺書」は、昨年秋、自殺したある女子高校生の日記を編集したものである。二年生の三学期入りから、三年生の二学期初めまでの約十ヶ月間の実際の日記抄。
昨年十月、県政担当記者として、多発する高校生の自殺事件を追跡取材していくうちに、偶然入手できたもので、すでにその一部は四十七年十月十九日付名古屋タイムズ紙上に一ページで掲載したし、また、旺文社発行の高二時代の四十八年六月号にも掲載された。
新聞発表直後から反響が大きく、”ぜひ本にしてほしい””教育の資料にしたい”など、高校生、父兄、教育関係者から再三再四要望があったのだが何分にもことがことだけに、本人の母親が絶対反対であったため、実現できなかった。
しかし、ことしにはいり、「あの子の日記を発表することで、同じように青春の悩みに直面している高校生たちに共鳴してもらい、一時でも心の友となることができたら、あの子も、草葉のカゲでよろこぶことだろう」と思いなおされ、ついに一部を除き、これを本にすることを許可してもらえた。
私が、公立高校三年の彼女の日記を、あえて世に出したかったのも、実は同じ願いがあったからだ。それは、彼女の日記のなかに、いみじくも書きしるされているように、「青春とは、心の揺れ動く時代」なのだ。あるときは自分がこの世で一番えらいものだと思いこむかと思うと、あるときは、自分がこの世で最低の人間だと思うほど、自信喪失者になったりする。いつも心が柱時計の振子のように、ゆれうごいているものだ。これは、いつの時代でも、また、誰にでも、程度の差こそあれ、同じようにある青春特有の心象風景なのだ。だから、一つのことに失敗したり、挫折したからって、絶望的になることはない。ましてや、みずからの手で、みずからのいのちを断つことがあってはならない。若さとは、苦しみながら、自分の可能性を追及していくことのはず、苦しみに負けてくれるな。たくましく生きてほしい。私は、それを訴えたかったのだ。そして、この日記を読むことによって、”ああ、苦しんでいるのは、自分だけではないのだな。高校生時代ってこういうものか、よし、わかった。”と、一人でも多くの高校生がふるい立ってもらえたら……と、心から願ったからである。
日記の文面は”原文のまま”だが、文中に出てくる人物名だけは、関係者のたっての希望により仮名を使用させていただいた。
一九七三年六月 小野田 和美
******************************
引用終わり。
三冊のあとがき・新装版
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以下引用。新装版の171ページ から 173ページ
******************************
「十七歳の遺書」は、一九七二年秋、自殺したある女子高校生の日記を編集したものである。
この年の十月、県政担当記者として、多発する高校生の自殺事件を追跡取材していくうちに、偶然入手できたもので、すでにその一部は四十七年十月十九日付名古屋タイムズ紙上に一ページで掲載したし、また、旺文社発行の高二時代の四十八年六月号にも掲載された。
新聞発表直後から反響が大きく、”ぜひ本にしてほしい””教育の資料にしたい”など、高校生、父兄、教育関係者から再三再四要望があったのだが何分にもことがことだけに、本人の母親が絶対反対であったため、実現できなかった。
しかし、翌年になってから「あの子の日記を発表することで、同じように青春の悩みに直面している高校生たちに共鳴してもらい、一時でも心の友となることができたら、あの子も、草葉のカゲでよろこぶことだろう」と思いなおされ、ついに一部を除き、これを本にすることを許可してもらえた。
私が、公立高校三年の彼女の日記を、あえて世に出したかったのも、実は同じ願いがあったからだ。それは、彼女の日記のなかに、いみじくも書きしるされているように、「青春とは、心の揺れ動く時代」なのだ。あるときは自分がこの世で一番えらいものだと思いこむかと思うと、あるときは、自分がこの世で最低の人間だと思うほど、自信喪失者になったりする。いつも心が柱時計の振子のように、ゆれうごいているものだ。これは、いつの時代でも、また、誰にでも、程度の差こそあれ、同じようにある青春特有の心象風景なのだ。だから、一つのことに失敗したり、挫折したからって、絶望的になることはない。ましてや、みずからの手で、みずからのいのちを断つことがあってはならない。若さとは、苦しみながら、自分の可能性を追及していくことのはず、苦しみに負けてくれるな。たくましく生きてほしい。私は、それを訴えたかったのだ。そして、この日記を読むことによって、”ああ、苦しんでいるのは、自分だけではないのだな。高校生時代ってこういうものか、よし、わかった。”と、一人でも多くの高校生がふるい立ってもらえたら……と心から願ったからである。
この本が、はじめて世にでてから、もう五年近くになる。しかし、最近でも、中学生や高校生の自殺は決して減ってはいない。悲しむべきことである。私が心をいためていた折も折、最近になって、本人の十六歳の頃の日記や詩が、あらたに発見された。そこで、本人の御両親、ならびにサンリオ出版部の御協力により、これらを加え、新装版として出版することになったのである。
今、ふたたび私は強く訴えたい。「みずからの手でみずからのいのちを断つことがあってはならない。どんなことがあっても、強く生きぬいてほしい」と。
日記の文面は”原文のまま”だが、文中に出てくる人物名だけは、関係者のたっての希望により仮名を使用させていただいた。
一九七八年三月 小野田 和美
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引用終わり。
三冊のあとがき・サンリオ文庫の物
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以下引用。サンリオ文庫の物の166ページ から 170ページ
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「十七歳の遺書」は、すぐる年の秋、自ら命を断った名古屋の、ある公立高校生の日記を編集したものである。
当時、私は社会部記者として、多発する高校生の自殺事件を追跡取材していくうちに、偶然この日記を手に入れた。その一部を新聞紙上に発表したところ、まったく予期せぬすごい反響があった。”ぜひ全文を読みたい””教育の資料にしたい””一冊の本にまとめてほしい”など、高校はもちろん、父兄、教育関係者から熱心な要望があった。
ところが、この女子高校生の父親が幹部公務員であったところから、世間体を考慮してか、母親が絶対反対であった。
当時は、いわゆる経済高度成長時代で、所得は高く、物は豊富で、”昭和元禄”の言葉さえ飛びかう浮かれ時代であった。ところが、肝心な”精神””心”を失ってしまったため、望める人間像を喪失し、殺伐たる世相であった。真面目な人間は、”いまでいう”ネクラ”のレッテルをはられ敬遠され、刹那的、享楽的風潮が流行した。
そんななかで、学生は受験戦争においやられ来る日も来る日も”勉強、勉強”に明け暮れる日々を送るしかなかった。いわゆる心のゆとりが全然なかった。それが引き金となって学生の自殺が相次いだ。特に女子高校生の自殺者が連鎖反応的に起こった。
年が明けた一月、神田理沙の母親から”会いたいから”の電話があった。私は直ちに神田家にとんだ。母親は言った。「随分考えましたが、あの子の日記を発表することで、同じような青春の悩みに直面している高校生たちに共鳴してもらい、一時でも心の友となることができたら、あの子も、草葉のかげでよろこぶことだろうと思いなおし……」ついに日記を本にすることを許可してもらえた。
私が、高校二年生から三年の彼女の日記を、あえて世に出したかったのも、実は同じ願いがあったからである。それは、彼女の日記のなかに、いみじくも書きしるされているように、青春とは、”心の揺れ動く時代”なのだ。あるときは、自分がこの世で一番えらいものだと思いこむかと思うと、あるときは、自分がこの世で最低の人間だと思うほど、自信喪失者になったりする。いつも心が柱時計の振子のように、右に揺れ、左に揺れ、揺れ動いているものなのだ。これは、いつの時代でも、また、誰にでも、程度の差こそあれ、同じようにある青春特有の心象風景なのだ。だから、世の中が自分の思うようにいかないからとか、一つのことに失敗したり、挫折したからといって、人生に絶望的になることはない。ましてや、自らの手で、自らの命を断つことなど、絶対にあってはならない。若さとは、苦しみながら、自分の可能性を追求し、探求していくことのはず。一時の苦しみに負けてくれるな。たくましく生き続けてほしい――。私は、それを訴えたかったのだ。そして、この日記を読むことによって、”ああ、苦しんでいるのは、自分だけではないのだ。高校生時代ってこういうふうに悩み、苦しみ、迷う時代なのか”と、一人でも多くの高校生がふるい立ってもらえたら……と、心から願ったからである。
この本が出た直後、旺文社の高二時代がこれを掲載され、反響が増幅された。続いて、松竹映画から「映画化したい」との申し入れもあった。女優の竹下景子が名古屋にかえったときこの本を読み、”ぜひ、映画に、私が主役をやりたい”と申し出たとのことであった。三船プロの赤穂ディレクターと、竹下景子が名古屋に来て、あちこち現地を見て回った。その後竹下景子が人気女優になり、多忙のため、映画化の話はなくなったが、反響は相変わらずで、私の新聞社の机の上に、読者からのいろいろの手紙が山と積まれた――。
いま、また、青少年の自殺が全国的に増加現象を示している。特に、年齢が上になるほど自殺者数も増えている。ついこの間も、名古屋のビルの屋上から、女子高校二年生が飛び降り自殺した。「お母さん、先にいくことを許して……」の短い遺書を残して。
私は、ふたたび強く訴えたい。「自らの手で、自らの命を断つことがあってはならない。どんなに苦しくとも、耐えぬいて、強く生きてほしい」と。
”苦しい””死んでしまいたい”……。自ら死を選ぶことが勇気ある行為というなら、それは違う、本当の勇気は”生き続ける”ことのなかにこそあるのだから。
ジャイアンツの西本聖投手がこんなことをいっている。
「人生って、大体八〇パーセントか、九〇パーセントは苦しいことだし、辛いことばっかりだ。けれど、残りの一〇パーセントか二〇パーセントがたまんなくいいから、その一〇パーセントをもとめてみんな生きてるんじゃないですか」と。
では、苦しみに負けないためには、どうしたらいいか。毎日新聞「女のしんぶん」の増田れい子編集長がこういっている。
「自分を他人とひきくらべないこと。自分は自分、他人は他人と、はっきり割り切って考えること。若いときだけではない。これは人生を続ける間中、大切な考え方、割り切り方です。
私には私の運命がある。行き着く場所がある。出会うべき人が必ずいる。しとげねばならない仕事がある。そう思っていただきたい」と。
若い人には、切ない、辛い、苦しいことの連続かも知れない。しかし、朝の来ない夜はないはず。どうか、誰にとっても、一回こっきりしかない命を、決してムダにしないように生きていただきたい。
「十七歳の遺書」の日記の文面は、”原文のまま”だが、文中に出てくる人物名だけは、関係者のたっての希望により仮名を使用させていただいた。
編者 小野田和美
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引用終わり。
編者の小野田和美さんの文章
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以下引用。新装版の149ページ から 154ページ
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編者から 小野田和美
『神田理沙の素顔』―「取材メモから」―
公立高校三年生だった彼女は、実によくできた子であったようで、関係者はいちようにそれを証言する。
「しっかりしていて、ずばぬけて頭がよく、高一から高三までいつもクラスの”ベスト5”の中に入っていた。それでいて、それをいささかもハナにかけず、むしろ、ひかえ目の方だった。あの子が、よりによって死を選ぶなんて、いまだに理解に苦しむ」と担任の先生。
「私は彼女の中学校からの友だちだからよく知っているつもりだが、よもや、自殺するなんて考えても見なかった。中学生のころから成績は抜群で、その上、育ちのいい顔をした美人だったので、クラスのあこがれのまとだった。だから、同性として反感を感じながらも、一目も二目もおいていた。」と友だち。
「お世辞でなく、本当にいい子だった。道で会えば、だれにでも同じように、笑顔でかならずあいさつするし、道路にゴミなどが落ちていると、そっと拾って片づけるという、いまどき珍らしい子だった」と近所の人。
「文学書がすきで、高一のころには、福永武彦、中村真一郎、井上靖とかいった作家のものを方っぱしから読んでいた。なかでも柴田翔の”されどわれらが日々”のフアンで、恐らく三、四回読み返していたのではないか。詩集ものも好んで手にしていた。三好達治、丸山薫といった世代の詩人のものから、谷川俊太郎、山本太郎、新川和江などといった詩人のものもよく読んでいた。」と女友だち。
勉強の成果か、天分の才に恵まれていたのか、たしかに”詩”はうまく、高校生ばなれのしたものを書いている。高一のときの冬の日記のあるページに次のような詩が書いてある。
忘れもしません
ぼたん雪の降る夜でしたね
あなたが、私に初めて会ったのは
そのとき あなたは
降りつむ 雪のなかで
石仏のように立ったままでした
ふと気づくと
あなたの指先きは
小きざみに ふるえていた
ああ そのとき
私は これはただごとではないと
不吉な予感がいたしました
いいたいことがいっぱいで
かえってあなたは一言も
ついに言わなかったのでしょうか
表面には出さなかったようだが、感受性は強かったらしく、人のいったことばにじっと考えこむことがときおりあったそうだ。
二年生の終わりころ、余程ハラにすえかねる事件があったらしく、国語のノートの裏表紙に、こんな激しい言葉がなぐり書きしてあった。
「もちろん、あんな連中は、人間のクズにすぎない。私はできるだけ意識をあの連中から離そうとしているのに、彼女はかえって軽蔑すべきあの連中に意識をからみ合わせようとしている。そうだとすれば、愚劣な現実に頭を下げて、ツノつき合わせをしているのは、私ではなくむしろ彼女ではないか。
私がじっと黙っているのは、あの連中と無益ないざこざをしたくないためだ。あの連中にかかわっているには、私たちの毎日は短かすぎるし、尊すぎる」。
「私は、自分のうれいのために、人まで不愉快にさせたくはない」。
人のいのちの尊さを、充分に知っていたはずの彼女が、なぜ、死を選んだのか。どうして。「なぜだか、私にはわからない」。日記の最後にそう書いて彼女は死んだ。
死の直前の七日間ほど、日記はまったく空白。ただの一文字も書かれていない。そして、この日記は”お母さん、お母さん”の呼びかけを最後に、未完成のまま終わっている。
「この残った部分には、もう永遠に理沙ちゃんの文字は書かれることはないのだと思うと、たまらないのです。なることなら、私がかわってあげたかったのに」と、彼女の母親はなげき悲しむのだが、いまはすべてむなしく、彼女を呼びもどすすべはない。
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引用終わり。
一九七二年の高校生の自殺について述べた文章
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以下引用。新装版の155ページ から 169ページ
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高校生の自殺について
四十七年、東海地方で高校生の自殺が相ついだ。特に愛知県下で多く発生し、男女高校生合わせて十七人という日本一の悲しい記録をつくった。人生の花の季節に入った大切な時期に、なぜ、彼や彼女らは、自ら死を選んだのであろうか。
たしかに、いまの高校生たちの周辺には、激烈な進学競争、目まぐるしく変転する社会、それに恋――と、数えあげればきりがないほどの問題が山積している。だからといって、これらが、彼らをして、人生への絶望、思想的行き詰まりを早めてしまった――と、簡単に片づけてしまっていいのだろうか。
女子高二年生を持つある母親は「高校生の自殺を新聞記事で見るたびに、また一人、悲しい親が生まれた――と、心をかきむしられる思いがします。そんなころから、娘はだいじょうぶだろうな――と、勉強部屋をそっとのぞくのが、毎晩の日課になりました」という。
また、石田退三トヨタ自動車工業相談役は「新聞が書きたてるから、連鎖反応を起こして、自殺者が相つぐのだ。一行も書かんで見給え、とたんに高校生の自殺はなくなるよ」という。
一方、丸井文男名大教授は「確かに自殺そのものが、感受性の強い高校生に伝染しやすいことは事実だろうが、しかし、打つべき手はあったはず」と残念がる。
では、自殺した人たちは、どのような理由で、どのようにして自らの命を断っていったのか。
愛知県下の自殺者のパターンで見る限り、死を選んだ最大の原因は、受験勉強、テストなど、いわゆる進学につながる「受験勉強行き詰まり型」が一番多く六人。次いで、病気を苦にし、前途を悲観した「病気悲観型」が四人。矛盾が多すぎる世のなかがイヤになった「人生あきらめ型」が四人。恋する人にふられたり、思うようにいかなかったラブに絶望した「失恋ガッカリ型」が三人――などとなっている。
しかし、これは、あくまで、自殺者の周囲の人や、関係者らが、勝手に”そうだろう”と分析、分類した結果のものであって、”真相”は別のところにあるのかも知れない。
例えば、九月初めの朝、自宅の物置きで首をつって死んでいた愛知県立高校一年・H君(一六)の場合。死因が誰にもつかめていない。
H君の父親は会社員。H君はその二男。H君が中学二年生のとき、お父さんの転勤でH君一家は名古屋市内から、相当離れた郡部地へ住居を移した。H君は、一時移転先の地元中学校へ転校、しばらく通学したが「新しい学校にはどうもなじめない」ということで、名古屋市内の前の中学校に復学してしまった。しかし、その中学校に通うためには、毎朝六時ちょっとすぎには家を出ねばならなく、通学に二時間以上かかる生活のあけくれであった。したがって、高校進学のときは、両親も先生も「地元の高校を選ぶように」と、さかんに忠告した。しかし、そうした助言をふり切って、H君は友人たちが多く進学する名古屋市内の高校を選んだ。
朝は六時家を出る。夜七時半ごろ帰宅。H君はそんな毎日を続けた。それでいて、成績はトップクラスだった。それが”どうして”、”なぜ”…。
「お父様、お母様、私はもう生きることができません。たいした理由はないのですが、どうせ私が世の中にいても、何ら役に立つわけではありませんから…」。
H君の遺書は、そんなふうに、ノートの切れ端に小さい字で書かれていた。
「通学が苦痛だということでは絶対ありません。たしかに疲れますけど、わりと楽しいから…」。
「死は三・四日前から考えていました。親不孝を許してください。」
「高校には、矛盾していることが多数ありますが、私が死ぬのは、そんなことのためではありません。もっと、ささいなことです。高校生活のささいなことです。なんでもないことでも、それで死ぬ人間もいるのですから。私は弱い人間なのです。九月七日、早朝かく」。
自殺の原因となったと想像される”ささいなこと”の内容を知りたい――と、H君の父親は、学校の先生やクラスメートにたずねたが、そのこころあたりはなく、いまもって自殺の動機はわかっていない。
「真相がはっきりすれば、息子への供養にもなるし、親としても納得がいき、気持も落ち着くのですけれど……」と、H君のお父さんはなげくが、いまは、すでにそれを知るすべはまったくない。
テストの成績がよくならないのを苦にして自殺した――といわれる公立高校・二年のK君(一七)の場合。
小学、中学ともクラスのトップ級にあったK君は、高一の三学期から成績の低下が目立ち、二年の一学期にまたダウン。本人が気にすればするほど、テストの成績は下降線をたどった。
「先生は”成績がすべてではない。多少の上下があっても一喜一憂せずにがんばれ”といってくれた。父も”長い人生のなかには、浮き沈みはあるものだ。そればかり苦にしていたら、人間みじめになってしまう。あせるな”といってくれた。それは、その通りかも知れない。しかし、みんなそういいながらも、心の底ではオレの成績アップを考えているに決まっている。ところが、肝心のオレはどうだ。前の授業が十分に理解しないので、いまの授業もまたわかりきらない。自然、次の授業も……。そんな繰り返しばかりだ。これでは、いつまでたっても、みんなに追いつけるわけがない。格差はひろがるいっぽうだ。ちくしょう!」
彼はある日の日記にそう書いている。また「人がなんといおうと、人生は競争であり、人との戦いだ。オレはすでに負けている。あせったってダメ。苦しんだってダメ。オレのことはオレが一番知っている。だれもかれもが悪いのではないが、どいつもこいつも憎い。もう一度原爆でも落ちて、みんな死んでしまえばいいんだ」。――とも書いている。これほど苦しみながら、彼は誰にも話さず、ある日一人死を選んだ。
名古屋市内で鉄道自殺をした愛知県立高校二年・A子さん(一七)の場合。
自殺の原因は「哲学・文学にこったため」というが、果して、それだけであったか、どうか。
「原点に帰れ。あの青年の悲劇を見よ(悪魔)。神は幸福をもたらしたのではない」。
A子さんの遺書にはそう書いてあった。
部屋には、カミュ原作の「シジフォスの神話」など、高校生になってから読んだものらしい文学、哲学書がいっぱい。では、文学・哲学少女らしく、こちんこちんであったかというと決してそうではなく、家のなかでは、フォークも歌い、クラシックもしんみり聴く子であったという。また、弟たちが楽しんで見るテレビ番組も、ときどき仲間にはいって結構見つづけており、日常の生活は、死の直前まで普通の高校生らしかったという。
遺書の中にある「あの青年の悲劇」については、A子さんの自殺の四日ほど前に、やはり自殺した高二の男友だちをさしていることがわかった。だから、原因は、哲学、文学にこりすぎたからばかりではなく、「あの青年の悲劇」が、死への道を早めたのかも知れない。
「日ごろ、死について、私と議論したこともありましたし、ときには”肉体は枯れても、新しい生はある”――と口にするときもありましたが……」と父親。
「自殺という伝染病にかかる精神状態にあったのでしょう。でも、それが、はたからはまったくわからなかったのです」と母親。
「実に頭がよかった。記憶力も抜群だった。それにもまして、ときどきびっくりさせられたのは、ものを見る目のユニークなことで、私たちが通りいっぺんに見すごすことを、この人は、その本質や裏側まで見通してしまうので、かなわんなあ―と思った」と友人。
いづれにしろ、A子さんの死の原因が、なんであったか、はっきり解明することは、これまた不可能でしかない。
どういうわけか、自殺者は、夏休み以後に集中した。左記の表を見ればわかるように、一月から七月までは合計五人であったのに、八月から十月中旬までに十二人もの高校生がつぎつぎと死を選んでいった。特に九月など五、六、七、二十三、二十四、二十七日と、順番を待つように自殺者が出た。
父兄もあわて、学校側もあわて、いろいろ対策をたてたが、ほとんどは徒労に終わった形となった。というのは、思いもかけぬような生徒が、きのうはあちら、きょうはここ――といった具合に、冷いムクロとなっていったのだから、手のうちようがなかったのだ。
「朝、生徒の顔を見るのがこわかった。それでも、みんなの顔がそろっていると、ああ、よかった――と、内心ホッとしたものです。いまでも、その恐怖の余いんがさめないのです」と、ある公立高校の先生が告白しているほど。
生徒自身も落ちつかぬことは事実で、「おい、お前だいじょうぶか」「ひょっとすると、オレの顔はみれないぞ」などと、冗談とも本気ともつかぬ会話もあったとか。
<愛知県下の高校生自殺者>
一月 (私立・三年女子)病弱で就職心配
二月 (公立・三年女子)えん世自殺
五月 (私立・二年男子)失恋
六月 (公立・三年男子)事故で両親死亡
七月 (公立・三年女子)成績低下に悩み
八月 (公立・三年女子)受験ノイローゼ
九月 (公立・三年男子)病身を苦にして
九月 (公立・三年女子)受験勉強に悩む
九月 (公立・一年男子)高校生活に悩む
九月 (私立・三年男子)病苦と失恋
九月 (公立・三年女子)身体不自由
九月 (公立・二年男子)親不孝を苦にして
九月 (公立・二年男子)成績ダウン
十月 (公立・二年女子)哲学・文学にこりすぎ
十月 (私立・三年男子)公務員試験不合格
十月 (私立・二年男子)失恋
十月 (公立・三年女子)原因よくわからず
では、このように連鎖反応的に多発した自殺現象を、当の高校生たちは、どのように解釈し、どのように受けとめたのであろうか。
名古屋市千種区の市立菊里高校で、十月六日文化祭で開かれた二年生C組の「自殺に関するシンポジュウム」のもようを再録してみると――。
男子生徒「ぼくは自殺を否定しない。なぜなら、否定する理由などないからだ。しかし、自殺には、必然性と思想が不可欠であるから、なんとなく自殺するというのには反対だな」。
男子生徒「自殺を否定することは、あまりに一般的で、優等生すぎるのではないか。人は死んでどうなる――というけれど、死ねばすべて終わるのだ。私はこう思う。”人は何んのために生きるのか。死のためである”――と」。
女子生徒「私は、やはり自殺には反対。どんな事情があろうとも、自殺は自分よがりのバカバカしい行為だと思う。自殺した人たちには悪いけど、私は自殺した人に問いたい。”あなたは、ありったけの力を出して、勢いっぱい生きたのですか”――と」。
男子生徒「自殺は一時的な感情からくるものだと思う。この感情を引き起す原因は、現代の風潮にあると思う」。
女子生徒「私は、人生は誰にとっても一回こっきりのかけがえのないものだし、不可解なものだから、生きられるだけ生きて、人生の本質を少しでも知ろうと思う」。
男子生徒「ぼくは自殺には賛成ではない。自殺は自分勝手であり、臆病だ。勇気ある行為とはいえない」。
女子生徒「人間は、どんなに死にたいと思うようなときがあっても、それに耐えて、あくまで冷静に客観視すべきだ」。
女子生徒「正直いって、私もあるとき自殺を考えたことはあるが、実行しようという気はまったく起きなかった。自殺は、やはり、現代社会および自分からの逃避だと思う」。
女子生徒「人間は、いつまでも、どこまでも生きたいという心を持つのが自然だから、自殺がはやっている現代は、不自然な世の中ということになると思う」。
「人の心の底なんて、他人にわかるわけがない。第一、自分の本心すら、自分自身でもわからぬときだってあるもの。それを、ああだ、こうだ――と、もっともらしいことをいうことは、死んでいった人たちへの侮辱ではないか。」(岐阜・長良高校 三年男子)
「こんな矛盾ばかりの世の中だもの、生きていたって仕方がないように、私も思う。でも、つらくても、苦しくても、やはり人は生きられるだけ生きるべきではないか。そのために、私は学び、努力しているのだから……」(愛知・岡崎北高校 二年男子)
「自殺って逃げることでしょ。やっぱり正面からぶつかっていった方がいい。衝動的にやってしまうのかな。十七、八歳ごろに自殺を考えないやつは、バカだって言った人もいるけれども、本当に死んでしまうのは、もっとバカじゃないだろうか」(愛知・一宮西高校 三年男子)
「私たち、倫理社会のテーマに、自殺をとりあげたの。結論は”自殺は悪い”ということにはならなかった。人間の特権っていったらいいすぎかな。私だって、受験のあせりでイライラすることだってあるわ。でも、だから死ぬっていうわけじゃないと思う。もっと複雑よ」(名古屋・明和高校 三年女子)
「自分のみにくさや、人を傷つけたとき、死を考えたことはある。でも、死ぬのは逃避じゃない。自殺が多いのは、一種の流行じゃないかしら。みんな死ぬからわたしもってね。一時シンナーがはやったのと同じと思う。受験体制なんて関係ないと思うわ。だって、昔だって、もっきびしい受験競争ってあったようだもの」(名古屋・金城高校 三年女子)
「もし自分が死んだら、それまで世話になった人たちがどんなに悲しむかって考えると、やはり死ねないな。でも、その半面、自分の人生は自分のためのもの、好きに生きていいはず――なんて考えることもある。いずれにしても、体制の問題は関係ないじゃない? ぼくたち、周囲が思うほど、灰色の青春ではない。それに、社会で生きている以上、どこかで格差ができるのは仕方がないと思う。」(愛知・旭丘高校 一年男子)
「高校生活でも、大人の社会と同じように、きたない面もあるし、序列もあるが、落伍して自殺に走るのは、本人が悪いからだ。」(愛知・岡崎高校 三年男子)
教師や教育関係者はどう見ているのか。
「一般論的だが、いまの高校生のムードに、死んでも生きても、どうでもいい――という虚無的な考えがチラッと見えることがあり、びくっとすることがある。いまの生徒は、先生に悩みを打ち明けるということはほとんどない。私の担任だったN君も、生前の一学期に三回も呼んでいろいろ話し合った。高校生の自殺が続くので、機会あるごとに、未来への希望、生きがい、世のしくみなどをテーマに話し合ったのだが……」(惟信高校 佐藤明夫教諭)
「公立高校では、よい大学への進学率の高低を一つのモノサシにし、教育の中身も高校生活も、進学一本ヤリになる傾向がある。学校で勉強、勉強で追いまくられ、家庭へかえれば、ここでも一にも勉強、二にも、三にも勉強と親からせきたてられる。こうした、自分の考えや生きがいが入る余地のない生活を強いられている進学校にこそ問題が多い。いまこそ、入試制度を根本的に考え直す時機ではないか」(名大 丸井文男教授)
「一般論的にいえることは三つあると思う。第一は、いまの高校生には精神的な抵抗力が弱い点。これは、十分すぎる環境のなかで、大事に育てられたため、苦労の経験不足からくるものだ。
第二は、高校生に関する限り、目的がひとつしかない。世相は多様化しているのに、進学高校生には大学への一本道しかない。自分は能力がない。好きでもないのに、その道を走らされる。これがとげられないと、すべてが終わると錯覚し思いつめる。行く道がないと深刻に考え、逃げ道がないので死を選ぶことになるというわけだ。
第三は、価値観の問題で、生きがいという普遍的理想像が確立されていないので、意欲不足になり勝ちだ。
これらを克服する道はいろいろあろうが、ひとことで言えば、”もっと苦労をさせる方がよい”ということだ」。(名古屋市立大学 高木健太郎学長)
「高校生の自殺といっても、理由は千差万別だと思うが、一般論で言えば、最近の高校生は根性不足だと思う。能力をフルに発揮してがんばるタイプは減り、高校生だってレジャーを楽しむべきだ――と、生活をエンジョイする考えが強いように思う。それは、それでいいとしても、鍛えこまれていないので、自分の思う通りにことが運んでいるうちは問題ないが、いったん欲求と現実とのバランスが崩れたときに、弱さが出てしまうのではないか」。(愛知・岡崎高校 遠藤登美男校長補佐)
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引用終わり。
制作 : RISA-1972